巨石遺跡にフェニックスを見た
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フェニックス(Phoenix)は、伝説の鳥である。不死鳥、火の鳥とも言う。
そのフェニックスを見た。眩しく美しい。場所は、岩屋岩蔭遺跡である。
岩屋岩蔭遺跡と金山巨石群

▲岩屋岩蔭遺跡巨石群
柵内には祠があり妙見神社、明治期以後は岩屋神社として国常立神が祀られていた。 国常立神は日本神話における天地開闢の創造神である。
旧約聖書に当てはめれば創世記、天地創造の創造主、絶対神ヤハウェ。日本では「主」と訳す。
岐阜県は、 悪源太義平の狒々退治の伝承 により、史跡としている。悪源太義平とは源義朝の子、源義平のこと。 義平は12世紀(平安末期)の武将で、悪源太の「悪」は猛将の意味である。
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岩屋神社の鳥居の南に渓流が流れる。妙見谷という。流れは馬P川に注ぎ、飛騨川を経て木曽川に至る。
妙見谷の北側斜面にあるのが岩屋神社の岩やしろ、「岩屋岩蔭遺跡巨石群」であり、 その東側40mにも巨石群がある。「線刻石のある巨石群」である。
それより東を見ると三角の山が見える。
県道の奥妙見橋から林道に入り東へ約600m、道無き山腹を喘ぎ登ること標高差約250m、 稜線付近にあるのが「東の山巨石群」である。
金山巨石群 は、この3か所の巨石群と、周囲に散在する大小の石からなる。
線刻石から太陽暦へ

▲線刻石
平行線は極めて明瞭に刻まれ、その斜めの線の少し上に窪みが3つある。
線刻石に接する形で隣の石があり、三角形の隙間があった。
金山町の 小林由来 は隙間から空洞を覗いた。
そこには空洞に差し込む夏至の太陽光が、スポットライトのように照らしていた。
この場所を古代の天文観測施設と考えた小林は、 さらに周辺調査へ広げるとともに、古天文学研究者らに助言を求めた。
太陽を観測する場所が山間の谷間とは常識を越えている、との声にも朝日夕日は届くことの検証を行い、確信を深めていく。
その後、2004年から2005年に、線刻石の窪みの形状と、夏至前後のスポット光があたる形と一致することが解る。
これにより、古代の天文台説が具体的事実として認められることになる。
1998年以降、小林ら 金山巨石群周辺調査委員会 の調査により、 3か所の巨石群において、いずれも太陽運行を観測でき、節目の日から日数を数えられることが確認できている。
これまで金山巨石群で観測が確認された節目の日は、1年周期の二至二分(夏至・冬至、春分・秋分)のほか、 二十四節気の 雨水・霜降、小満・大暑の各々の頃と、岩屋岩蔭遺跡巨石群では4年周期の閏年が判別できている。
金山巨石群では太陽の運行を観測して、太陽暦を知ることができたのである。
1万2000年前の縄文時代

▲J石(中央)と再現館(右端)
中生代白亜紀に大規模火砕流の堆積による溶結凝灰岩で強固である。
巨石は自然石を巧みに切削し加工したもので、鉄器の無い時代にあって、その技術には驚かされる。
金山巨石群が築造されたのは、縄文時代と考えられている。
縄文時代は約16,500年前から約3,000年前までと幅が広い。
ほかの巨石建造物と比べてみると、
北海道の 忍路環状列石 は、約3,500年前の縄文時代後期のものと推定されている。
ヨーロッパの巨石文明は、 ストーンヘンジ を例にとると、約4,500年前(紀元前2500年から紀元前2000年の)間に立てられたとされている。
ギザの クフ王の大ピラミッド は約4,500年前(紀元前2540年頃)に建築されたと考えられている。
地中海 マルタ島の巨石神殿 は、5000年以上前のものとされている。
2001年(平成13年)の岐阜県による調査で、岩屋岩蔭遺跡周辺から縄文時代早期(約10000年前〜6000年前)の押型文土器片が発掘された。
また、2003年(平成15年)には線刻石下から6000〜7000年前のチャート製削器などが出土した。
これにより、金山巨石群は縄文時代早期かそれ以前に構築されたものと考えられる。
私は、J石の北面の方位角は構築時の天の川方向と考えた。( 巨石遺跡に天の川を見た 参照)
天文シミュレーションの結果は1万2000年前の星空と一致した。
縄文時代草創期である。
その頃、ヤンガードライアス期と呼ばれ、地球規模の急激な気候変動が起こった。
温暖化が進行し海水面が上昇した。動植物への影響は、食糧に直結した。
太陽の運行を把握する暦は、人間が生き延びるために必要であった。
アブシンベルの朝日

▲再現館のアナレンマ
ここでは、5か所の小窓から差し込む太陽光が、太陽高度の変化で1年周期と区切りの日がわかるように作られている。
右の図の縦に並ぶ5つの点が、天球図に方位と高度を合わせた小窓の位置で、 12時、13時、14時の均時差曲線アナレンマを重ねて図示している。
この図で、日付から、小窓から差し込む太陽光の位置と時刻を読み取ることができる。
例えば、二十四節気の雨水(2月19日頃)の日は、太陽は、 13:00のアナレンマ雨水の点と14:00のアナレンマ雨水の点の間の約1/3に、小窓の下から2番目の点を通過する。
この日13時20分過ぎ、スポット光として測定面に当たると読み取れる。
実際に、2010年を例にとれば、太陽は2月19日(雨水)の13時21分に、 岩屋岩蔭遺跡内に差し込み、スポット光は測定石面に当たる。
この時の太陽の位置は、方位S24゚33'W、高度約40度であった。
この数値だけでは意味が無さそうに思うが、
じつは、重要な意味が隠されていた。
日本時間 13時21分。
日本から遠く離れた、北緯22度20分、東経31度38分。
エジプト、 アブ・シンベル 。
現地時刻は朝6時21分。
アブ・シンベルでは 日の出の瞬間を迎えている。

▲アブ・シンベルの朝日:Google Earth
このことは、岩屋岩蔭遺跡巨石群とアブ・シンベル大神殿とは、遠く離れていても、同時に太陽を観測していることを意味する。
岩屋岩蔭遺跡に居て、エジプトの日の出の時刻が判るのである。
日本とエジプトが時間を共有していたのである。
巨石遺跡にアナレンマを見たで述べたとおり、 岩屋岩蔭遺跡巨石群は、1日24時間、1時間という時間単位を知った上で、設計している。
推定1万2000年前、縄文時代草創期のことである。
ラムセス二世によって、紀元前1300年頃(約3300年前)に建設されたという、アブ・シンベル神殿だが、 おそらくそれ以前に、太陽を観測する施設がアブ・シンベルに既にあったことが想像できるのだ。
このことは、古代にエジプト時間を世界標準時として使っていると考えられる。
もし雨水の日、メキシコあたりの巨石遺跡で、午前10時頃の太陽が観測できれば、それはアブ・シンベルの日没の時刻だ。
メキシコでの日没は、金山巨石群では午前10時頃だ。
世界標準時ネットワークは、地球が球体であることを知っていたと推定できる。メキシコのどこかにある。
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アブ・シンベル神殿はアスワン・ハイ・ダムの建設によって水没になるところ、ユネスコと世界の60ヶ国の援助により現在の場所に移築された。
これがきっかけで1972年に世界遺産条約が成立。アブ・シンベル神殿は、文化遺産第1号の1つとして登録された。
岩屋岩蔭遺跡巨石群に近い馬P川に岩屋ダムがある。計画は中部電力と農林省が行っているが、ダムサイト地点選定を岩屋岩蔭遺跡の下流側に作る案もあった。
幸い、上流側の現在地に作られ、水没を免れている。世界史に重要な証拠が残ったのだ。
不死鳥フェニックス
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フェニックス( Phoenix)の起源は、エジプト神話の霊鳥ベンヌで、太陽神ラーの魂である。
ラーはこの世の最初に鳥の姿でベンヌとして誕生し、時間が開始されたという。
古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、伝聞として、 アラビアからエジプトに飛来する聖鳥で、羽は赤と金色。
500年に1度、父鳥の死骸を太陽神の神殿に葬るためにやって来るという。
帝政ローマ期には、フェニックスは自ら香木を積み重ねて火をつけた中に飛び込み、 その灰の中から再び若鳥となってよみがえるという。

▲岩屋岩蔭遺跡のフェニックス
キリスト教では、この鳥がキリスト復活の象徴として描かれている。
ヘロドトスが伝えるアラビアとは東方のこと。東から飛来とは太陽のこと。 羽の色の赤と金色は、紅炎とコロナのこと。 父鳥の死骸を太陽神の神殿に葬り、再び若鳥となってよみがえるという。
それがフェニックスなら、フェニックスとは、皆既日食の描写に間違いない。
2009年7月22日、私は皆既日食帯の屋久島にいた。雨中の皆既になったが、それでも昼間に暗黒の闇は感動的であった。
不死鳥フェニックスを見た。
岩屋岩蔭遺跡巨石群、巨石と巨石の隙間から差し込む太陽光を撮らえた。
実際はレンズを通した光芒であるが、
光芒の形はフェニックスのように見えるが、如何。
(文中の敬称を略させていただきました)
樋口元康