資料によると縄文時代の遺物が出土したとされて遺跡になっている。
神さん山へは延岡市の中心部から北西へ、祝子川に沿って県道207号線を28km、祝子川温泉に至る。
さらに細い道を800m程進み、右側に「洞穴遺跡」の標柱が目印。
ここから山に入り240段の石段を登ると平場があり、左前方に巨大な岩塊が目に入る。
2012年11月某日に私は、神さん山を訪ね、あとから登った辰さんと合流した。神さん山情報を報告いただいた盟友である。
巨岩の岩屋は、まさに神様の岩山だ。その巨大さに圧倒されながら近づくと、岩の隙間が洞窟空間に奇麗な三角形の石が座っているのが目に入る。これが三角石だ。
三角石の手前に鳥居があり祭祀対象にふさわしい雰囲気が包んでいる。
二拝二拍手一拝で神様に御挨拶をして近づく。両手を広げて巨石のパワーを頂く。
三角石は正面がほぼ垂直で南南西を向き、高さが2.4m、底辺の長さ3.8m。
右の巨石が斜めに被さる壁天井に三角石の頂部は接している。
石材は花崗岩で、表面は風化して石英の結晶が浮き上がっている。
石面が青白く見えるのは、表面を薄青色の地衣類が覆っているからだ。
巨大な岩塊といえる巨石の岩屋は南側正面の高さ17m程、全体で20mはあろう。幅も奥行きも同じほどの大きさがある。
正面から見ると二つの巨石に分かれ、右の巨石が大きく、左に寄りかかっているのを、左の巨石が支えているように見える。
左右の巨石の下部に洞穴状の隙間があり、三角石が座っている。
右の奥行きは3.7mで狭く塞がる。
左側は崩落したと思われる石が被さり、その上部左奥はで6.8mまで洞穴になり埋まっている。
頭上は右の巨石が大きくオーバーハングして、岩陰を形成している。
岩屋を左側へ回り込むと巨石の奥は岩の割れ目が多い。
一方、右側から回り込むと登り傾斜に沿って巨石は18mを超える奥行きがある。
巨石より北方向は、灌木の先に離れて別の巨石が存在している。
宮崎市内の宮崎県立図書館で調べ、
宮崎県埋蔵文化財センターを訪ねた。遺跡について尋ねたところ、県として発掘調査はしていないとのことであった。
次に延岡市文化課を訪ね、
神さん山における体験イベントの資料等を戴いた。
続いて訪れた延岡市立図書館の蔵書で「北川町史」に遺跡について記載があった。
「北川町史」の北川町は、2007年の延岡市に編入以前は宮崎県東臼杵郡北川町であって、
「北川町史 通史編」(H16年9月発行)の、縄文時代の章に、巣ノ津屋遺跡 の項をみると次のような記載がある。
巣ノ津屋遺跡
祝子川温泉北方の緩傾斜地の畑地に所在する遺跡であり、多数の打製石鏃や石匙が出土している。 石材は、姫島産の黒曜石やチャート等であり、石鏃は形式から見て縄文時代の早期、前期の所産といえる。
山一つ超えた北川町上鹿川…(3個所の縄文遺跡;略)…にも縄文遺跡があり、同様に多量の石鏃が出土しており、…
また、両者間には峠を越えての交流があったことも十分うかがわれる。 …
祝子川地区では、巣ノ津屋遺跡のほかに石匙が出土している下祝子洞穴(岩陰)遺跡、さらに祝子川小学校の校庭からも石鏃等が採集されている。
──中略(北川町内の遺跡についての記載がある)──
このように本町(北川町)の各地域から遺物が出土しているが、いずれも表面採取であるのでその量は少ない。
しかしながら、縄文時代早期から人々が住み着き、空白の時期もあったであろうが、晩期に至るまでそれぞれの時期において生活が営まれていたことが分かる。 遺構については各遺跡とも不明であるが、土器、石斧、石鏃、石匙、石錘等の遺物からみて、回りの環境に適応しながら弓矢を使った狩猟、網を用いた漁労、さらには植物の果実あるいは根塊を採集しては、煮たり、焼いたりしての食生活が日々展開されていたといえる。
──
前後するが同書の、本町の旧石器 の項に、
──
昭和40年代に、今は独立丘陵となっている(川坂所在の)城山からチャート製のナイフ形石器とマイクロ・コア(細石核)を採集したという報告がある。(現在は所在不明)…すでに本町においても後期旧石器時代に人々の生活が始まっていたことが分かる。 ──
とある。
なお、上記と同じ内容の記載は「宮崎県埋蔵文化財センター発掘調査報告書 第198集 家田古墳群・家田城跡」2011年(宮崎県埋蔵文化財センター)にも存在した。
巣ノ津屋遺跡が、畑地に所在する遺跡とあるため、洞窟遺跡あるいは洞穴遺跡とは別ではないかとも読めるが未確認である。
関連する資料を見ると、
「角川日本地名大辞典・宮崎県」には、次の記載がある。
可愛山稜伝承地 ──
祝子川沿いの巣野州屋では縄文時代の住居跡と思われる洞穴があり、上流の小岩屋では多数の石鏃・石匙が出土している。
── とある。
小冊子「北川町文化財地図」北川町教育委員会(平成元年)によると、下祝子川洞穴遺跡の文末に、
「北川にはこのような洞穴遺跡と思われるものが曽立山中腹、可愛岳、祝子川巣野津屋等でみることができる。」
── とある。
この地域では岩の露出が各所にあることから洞窟状の地形が多く存在して、縄文時代早期から、ことによると後期旧石器時代から人々が生活をしていた証拠となる遺物が出土していることがわかる。
名称について、地元は「神さん山」(神様山)といい、登り口には「洞穴遺跡」とあり、「北川町史」には「巣ノ津屋遺跡」と載り、その他Web等では「巣ノ津屋洞窟遺跡」とある。
国土地理院の地形図と字名に該当はない。
地元(延岡観光協会など)は「神さん山」、インターネット等では「神さん山」と「神様山」の表記がみられ、読みは「かみさんやま」である。
国土地理院2万5千分の1地形図にも「巣ノ津屋」の地名が見られる。
「巣ノ津屋」は小字名である。(「角川日本地名大辞典・宮崎県」)
「巣」は木の上の鳥の巣に雛がいる形で、古い時代に人も木の上に住むことがあった。窟の中に住むことを巣窟といい、のち悪党盗賊が隠れ住む意味になった。
「津屋」は荘園または港湾に設けられた倉庫のことで、「津」は水のしみ出る意味。(「常用字解」白川静著)
合わせると、水のしみ出る巣窟に人は住めず、住めるのは神ということになる。
「祝子川」の「祝子」とは、神を祭る人をいう。神を祭る人は長男で、祭卓の前で神を祭ることを示し「いのる」の意味になり、「いのる人、はふり、神官」となり、のち「いわう」の意味に使う。
ホオリ=
![]() 手前にあるのが方位石。真北方向の岩陰に三角石が見える。 |
![]() 石段天端の三角石。踏み石は三角形。真北の方向の空が見通せる。 |
岩屋の南側は平場で、祭祀を行う場所である
岩屋の三角石から真南へ18.6mのところに方位石がある。
方位石から直角方向の真東に17.2mのところに、神さん山と登り口をむすぶ石段の一番上、天端(てんば)がある。
ここで足下を見ると、天端の踏み石は2辺が土面と馴染んで気が付きにくいが、よく見ると三角形である。
三角形をした踏み石も特異だが、その踏み石に立つと、真北がまっすぐ見通せる。土地の緯度と同じ仰角32度の空が見える。
夜はここから北極星が見えるであろう。
石段天端の三角石は北天を見通せる位置あった。
神さん山の三角石は、当時の星の配置をを写し取っていたのではないだろうか。
三角石の三角形が、象形文字に残されているはずと考え、「北辰」の「辰」について、象形文字を調べてみた。
「北辰」とは
── 北極星のこと。(大辞林)
── 《北天の星の意》北極星の異称。(大辞泉)
── (北天の星辰の意)北極星。また北斗七星のこと。帝居または天子のたとえ。(広辞苑)
── @(北天の星辰の意)北極星。また北極星が多くの星の中心であるところから、皇居、天子などにたとえていう。 …… *和蘭天説(1795)「数百年を経ては北辰居を転ず。及び列宿諸星五十一秒の違ありて其居を移せり」(日本国語大辞典)
──とある。では「北辰」の「辰」とは、
── H辰、北極也。辰、北辰也。……▽二枚貝が殻から足を出してゐる形に象る。(大漢和辞典)
甲骨文字の「辰」
「字通」より
──(象形)蜃蚌などの貝の類が、足を出して動いている形。…… 金文に「辰は五月に在り」のようにいうのは、辰が農時の意から、時期の転用にされたものであろう。(「字通」白川静)
「蜃」とは、─大蛤のこと。 「蚌」とは、─どぶがひ。からすがひの一。(大漢和辞典)
──蜃の象形。……蜃は古く草刈りの器として農耕に用いられ、農の字もその形に従う。 それで辰に対する古典的信仰というべきものがあって、「祭祀には蜃器を供することを掌る」とあり、…(「字統」白川静
──とある。
「辰」は二枚貝が殻から足を出して動いている形だという。
二枚貝は大ハマグリや
淡水産のカラス貝(イシガイ)だ。
その大ハマグリが時刻(とき)と共に動くという。
甲骨文字の「辰」を見ると'△'が貝を、'U'が足を表している。'△'が星の並びとすれば、
さしずめ「はまぐり座」という星座が天の北極にあって、日周運動で回るように動いていると見る。
古代の人が自然現象を分かりやすく例えたと捉えると、北天の空に3つの星でできる三角形、いわば北の大三角が時刻(とき)と共に動く。
恒星などの天体が地球の自転によって天の北極を中心に周りを毎日回るように見える
日周運動の形であると読み取れる。
参照:天文の基礎知識 - 天球の回転(AstroArts)
石段天端の三角石が北極星を見通せる位置あったことと、縄文時代の遺物が出土したことから、 縄文時代に、当時の北極星を見ていた状況が想像できる。
地球の地軸は歳差運動により首振り運動をする。 天球上の黄道北極を中心とする約23.5度の円を歳差円といい、 天の北極は歳差円を約25,800年で周回する。 天の北極に最も近い輝星が北極星となる。
現在天の北極に最も近い輝星である北極星ポラリスは AD400年頃に、こぐま座コカブと入れ替わって北極星となった。AD3300年頃にはケフェウス座γ星エライに移り変わる。
北極星は何千年かで別の星に移り変わる。
巣ノ津屋遺跡と周辺から縄文時代早期の遺物が出土しており、当時の人々が北天に見ていた星は何かを、シミュレーションで見てみよう。
1万6000年前の北天星図
今からおよそ1万6000年前(BC14000年)の頃、後期旧石器時代。 | |
1万4500年前の北天星図
今からおよそ1万4500年前(BC12500年)の頃、後期旧石器時代から縄文時代草創期。
この頃、ベガは最も天の北極に6度以下にまで近づく。 | |
1万2500年前の北天星図
今からおよそ1万2500年前(BC10500年)の頃、縄文時代草創期。 | |
1万年前の北天星図
今からおよそ1万年前(BC8000年)の頃、縄文時代草創期〜早期。 |
後期旧石器時代から縄文時代草創期において、天の北極を囲む3つの星があり、その一つはこと座α星ベガであった。
当時の人々が北天に3つの星でつくる三角形を見ていたはずである。ここで北辰の三つ星と名付けることにする。
北辰の三つ星を神話として想起されるのが、 「古事記」上巻の冒頭に、最初に登場している 造化の三神に重なると思う。
天地開闢のときに 高天原に出現した別天津神で、 万物生成化育の根源となった三神を造化の三神といい、 天御中主神・ 高皇産霊神・ 神皇産霊神をいう。(造化の三神 - 大辞泉)
──とある。造化の三神を含む別天津神は現われて、そのまま身を隠したという。
北辰の三つ星は地軸の歳差運動によってやがて天の北極から離れて、別の星と入れ替わっていく。
造化の三神は、北辰の三つ星を神格化したとするなら、身を隠したという下りは天文現象の描写と似ている。
別天津神 > 造化の三神
神世七代 > 伊耶那岐神=イザナギ
└─ 天照大御神=アマテラス
└─ 天之忍穂耳命=アメノオシホミミ
└─ 邇邇芸命=ニニギ
└─ 日子穂々手見命=山幸彦=ホオリ
└─ 天津日高日子波限建鵜草葺不合命=ウガヤフキアエズ
└─ 神倭伊波礼毘古命=神武天皇
「古事記」で神々の系譜を追っていくと、ニニギは日向国の高千穂峰に降り(天孫降臨)、ニニギの子、ホオリが生まれる。
祝子川上流には山幸彦ホオリの伝承が伝わっている。
歳運動差により北極星は移り変わっていくが「辰」の漢字はそのまま残り、この頃こぐま座β星コカブが天の北極に最も近い輝星(紀元前1100年頃)で、 「天皇大帝」の思想とともに、北斗七星が天の北極に近づいてきた。
古代、東夷族の領主にして中国五帝の1人に数えられている少昊は、母系の伝承により、 天空のある一点を中心として星々が巡っているように見えることを知っており、そこを北辰と呼び(天の北極に該当する)、宇宙の中心と考えていた。 その象形は、北辰を中心点としてその周囲を24時間かけて回る星々を一輪の円で描き、一日というサイクルを表して「日」の原型と成った。- Wikipedia
──とある。
古代中国では北辰を宇宙の中心と考え、天皇大帝とする思想が生まれた。
また北斗七星について、
『史記』 『星経』 には北斗は北辰を中心に一晩で一回転し、一年で斗柄は十二方位を指し、止まることのない永久時計として陰陽(月と太陽)、 そして夏・冬を分け、農耕の作業時期を示し、国家安寧を保証するとある。- Wikipedia
「三つ星」という家紋は三つの●が集まる形で、妙見信仰から図案化されたものだという。
妙見信仰は仏教の妙見菩薩を信仰するが、
その元始は中国の星宿思想から北極星を神格化したものである。
日本では神仏習合により「妙見寺」、「妙見神社」といった社寺が各地にある。
このページを見ると、妙見神社の祭神は 造化三神と天御中主神を祀る神社が多数を占める。 北辰の三つ星から造化三神、北極星、北斗七星の流れと、天の北極付近に廻ってくる輝星に対する自然信仰が現れている。
岐阜県下呂市にある金山巨石群のJ石の南面は、真北に向けて35度の傾斜が付いている。緯度と同じ傾斜角の延長方向に北極星が見える。
視線方向には岩屋岩蔭遺跡巨石群の東側のE石の頂部がある。
J石を南側から見ると富士山形をした傾斜平面だが、頂部が僅かに欠如したものとすれば、もとは三角形と見ることができる。
神さん山の巣ノ津屋洞窟遺跡の三角石の南側は岩屋によって北天は見えないが、石段天端の三角石から32度には北極星が見える。
視線方向の左側に巨大岩屋の東面がある。
ともに多数の石鏃や近辺から縄文時代早期の土器片が出土している。同じ時代の古代人の生活があったと考えられる。
巨石時代の古代人には太陽信仰と同時に北辰信仰があった。
太陽の動きで1年の周期から太陽暦を知った。恒星の日周運動で時刻を知った。
変わらぬ動きをする太陽や星、時には天文現象を起こす日月星辰を神格化して神と見なした。
古代人は石を使って方位を示した。太陽信仰は東西方向に配置し、北辰信仰は南北方向に石を配置した。
東西方向と南北方向が交差する中心には3つの石が置かれた。
3つの石は北辰の三つ星を意味し、神の依り代とされ、信仰の中心であった。
1つの三角形の石、三角石も同じく北辰の三つ星を意味している。
北天で最も明るいベガと三つ星の三角形を見て、日周運動によるベガの位置で季節と時刻を知ったのであろう。
右の写真は、
ベガを含む北辰の三つ星の三角形の中に、天の北極が入るBC12500年頃(BC14000年頃からBC11500年頃まで)の三つ星の形が、
神さん山の三角石の形によく似ている。シミュレーション星図と写真を重ねるとピタリと一致するのは偶然だろうか。
おそらく、神さん山の三角石は北辰の三つ星を写し取った形だと思う。
さらに方位石と階段天端の踏み石の位置は人為的に設置したもので、神さん山の石の配置は明確に北辰信仰の証拠と考えられる。
神さん山の連続アナレンマ図 | ||
---|---|---|
![]() 東側に太陽がある場合 |
![]() 南側に太陽がある場合 |
![]() 西側に太陽がある場合 |