星たび
星たび

金山巨石群


金山巨石群(かなやまきょせきぐん)は、岐阜県 下呂市金山町岩瀬字高平 にある巨石記念物で構成される巨石遺構。
巨石群を構成する岩屋岩蔭遺跡では、岐阜県と旧金山町の発掘調査により縄文時代から遺跡が使用されていたことがわかり、 地元民間の調査では巨石群で天文観測が行われ、さらに太陽暦が使われていたことがうかがえるとしている。

これまでの研究から「金山巨石群を構築したのは、証拠のある8000年前を含む、およそ1万2000年前から7000年前頃までに、 高度な天文知識を持つ縄文人であった。」(樋口)と推定できる。
参照:岩屋岩蔭遺跡 - 星たび

概要


金山巨石群
金山巨石群の岩屋岩蔭遺跡巨石群(妙見神社)

金山巨石群は、岐阜県指定史跡「岩屋岩蔭遺跡」のある「岩屋岩蔭遺跡巨石群」と、 40メートルほど東の「線刻石のある巨石群」、 および東へ600m 高低差250mほどの「東の山巨石群」の3個所の巨石群の総称である。

地図妙見神社(岩屋岩蔭遺跡・金山巨石群) - Google マップ

金山巨石群調査資料室の調査研究によって、 巨石の岩陰に太陽光が射し込むなど、3個所の巨石群で、一年の一定の日を知ることができることが判明した。 日本の先史時代天球太陽が動く 日周運動年周運動について、詳細な観測が行われていたことが明らかにされ、 閏年の測定精度は グレゴリオ暦をしのぐことが確認されている。 このことから、縄文時代太陽暦が使われていたことが推定されている。

太陽カレンダーシミュレータ再現館」は、 旧金山町が平成15年(2003年)に建設した教育施設で、5つの小窓から日差しが射し込むことで太陽高度がわかる建物。

岩屋岩蔭遺跡

押型文土器
「岩屋岩蔭遺跡発掘調査報告書」にある、調査で出土した縄文時代早期の押型文土器片。沢式に位置づけされ、8000年前とされる。

岩屋岩蔭遺跡」は、悪源太義平(源義平)の 狒々退治の伝承により昭和48年(1973年)岐阜県史跡に指定された。
平成13年(2001年)に岐阜県と旧金山町が発掘調査を行ない、岩陰から約8000年前の 押型文土器片 をはじめ、 縄文時代早期、縄文中・後・晩期、弥生時代の遺物(土器・石器)が出土した。 [1]

岩屋妙見神社
岩屋妙見神社 (祖師野八幡宮の飛地境内)
線刻石のある巨石群
金山巨石群の線刻石のある巨石群。

岩屋妙見神社

妙見神社(岩屋神社)」は、 下呂市金山町祖師野にある祖師野八幡宮の飛地境内。岩屋岩蔭遺跡の洞穴に社殿が残り、 祭神は天常立神 [2] (一説には国常立神)で、祖師野八幡宮に合祀されている。
金山巨石群では、太陽や北斗七星などの天文観測とともに、 自然崇拝として 太陽信仰[6]と北辰信仰[7]が行われていたことがうかがえる。

調査研究と観光

金山巨石群調査資料室は、 金山巨石群周辺調査委員会(1998年設立)の調査活動を引き継ぎ、金山巨石群と太陽運行との関連を調査する民間研究室。
平成22年(2010年)に、うるう年を正確に測定していたとする研究成果を発表。
平成25年(2013年)には、多数の小石が約40年前に岩屋岩蔭遺跡から採取されていたことが明らかになり、 その中には1万2千年前の石器(有舌尖頭器)などが見つかっている。 小石は遺跡内に射し込む太陽光の形・大きさが一致し、 うるう年の判定のために使われたものと調査を続けている。

金山巨石群調査資料室では、 巨石群の調査研究と観測日には太陽観測会を行なっている。
金山町観光協会では、重要な観光資源として広報、イベント開催を行っている。
現地には「古代の天文台」の遺跡探訪や、 パワースポットとして訪れる人も増えている。

地形と巨石群


妙見谷
岩屋ダムの下流側、馬瀬川に合流する支流妙見谷は、東北東から西南西に下る谷筋。 岩屋岩蔭遺跡は北側斜面に位置する。

岩屋岩蔭遺跡巨石群と線刻石のある巨石のある妙見谷の谷筋は、 東北東から西南西に馬瀬川に流れ下っている。、
天体観測には不向きと思われがちな谷地形だが、夏至の日の出と冬至の日の入りの方向に障害物は無い。

遺跡は南向き斜面の標高約380m、谷からの比高差約15mに位置している。
巨石を構成する岩の種類は、濃飛流紋岩。 発掘調査によって、岩屋岩蔭遺跡は平坦な面に形成されていることが判明。
所在地の地名は、岐阜県飛騨の下呂市金山町にあるが、明治の初めまでは、美濃國郡上郡岩屋村字高平と称していた。 高平という地名には平らな地面に築いたという意味がある。
報告書は自然崩落説を採用しているが、調査研究の結果は人力の関与を否定できない。

3個所の巨石群とJ石

岩屋岩蔭遺跡巨石群
岩屋岩蔭遺跡巨石群。左からG石、F石(中央石)、E石
線刻石のある巨石群
線刻石のある巨石群を北から俯瞰。左からB'石、B石、C石、A石(線刻石)、手前足下がD石
J石
J石の南面は35度の傾斜角。真北に見える岩屋岩蔭遺跡のE石の上に北極星が見える。
東の山巨石群群
東の山巨石群のR石を南西側から俯瞰。左端にS石の一部が見える。

岩屋岩蔭遺跡巨石群

妙見神社の参道を登ったところに3つの巨石で造られた巨大な岩屋。
E石、F石(中央石)、G石、それと H石(立石=メンヒル)で構成する。
E石とF石の隙間を通って岩屋の内部にスポット光が差し込み、1年の一定の日に測定石に当たる。
真南に40m離れたJ石も北極星を観測する機能で関連する。

線刻石のある巨石群

岐阜県道86号の妙見谷に架かる妙見橋から坂道を下りる右手の巨石群。
A石(線刻石)、(A石北側の)三角状石面の石、B石、B'石、C石、D石の6石で構成する、中央の石(祭壇石)も重要な石。
A石の「線刻とだ円」と太陽スポット光の関係は、小林由來氏によって発見され、1998年から金山巨石群の調査を始めるきっかけになった。

東の山巨石群

妙見橋付近から見える山の稜線近くにある。上部が直線9mのR石とS石で構成する。
小林氏が、冬至を観測する巨石の存在を予測して探し当てた。
なお、東の山巨石群への登山道は無い。見学には危険防止のため、健脚者でも靴や杖の準備を怠らず、観測日にまとまって参加することになる。

外部リンク:「金山巨石群と太陽暦」>3箇所にある巨石群を参照。

金山巨石群・配置図
金山巨石群の岩屋岩蔭遺跡巨石群と線刻石のある巨石群の配置図。 J石を基準に、北に岩屋岩蔭遺跡巨石群、東に東の山巨石(図の範囲外)、北東に線刻石のある巨石群を配置している。

J石

J石は、太陽カレンダーシミュレータ再現館の西にある三角形の巨石。
南面は水平から約35度の傾斜角。真北に岩屋岩蔭遺跡巨石群E石の頂部に接する。東方向遠くに東の山巨石群。北東42度方向は線刻石のある巨石群のD石に接する。
北極星を指す南北の子午線、東西の太陽の道、北東方向は1万2000年前に天の川が天頂に立ち上がる方向を示唆する。

太陽観測


金山巨石群・岩屋岩蔭遺跡 金山巨石群・岩屋岩蔭遺跡
金山巨石群の岩屋岩蔭遺跡巨石群を南側から見た全景。
右側は1月の撮影、左側は3月の撮影。F石の庇の下面が南向き40°のため、雨水の日(2/19頃)を境に太陽の高度の差で日の当たり方が違うことがわかる。

金山巨石群では、巨石の加工と石組みによって、太陽の運行について精度の高い観測ができる。 3個所の巨石群がそれぞれの役割を分担して、二十四節気の12の中気をすべて特定することがほぼ可能である。 すなわち、太陽の高度を観測することで、太陽黄経を知ることができたといってよい。
加えて、現在もなお閏年を高い精度で観測できることにより、 太陽の運行を観測できることから、彼らが暦として太陽暦を使っていたことは間違いの無いことであろう。 この巨石群を築造して、観測を行っていた縄文人は、高度な天文知識を持っていたことが想像できる。


岩屋岩蔭遺跡巨石群

岩屋岩蔭遺跡巨石群・F石の突出部
春分と秋分に太陽が西の山に沈む前、岩屋岩蔭の巨石隙間を光が通り抜ける。春分のアナレンマを合成。

主に春分を挟んだ春と、秋分を挟んだ秋の期間の太陽を観測する。

岩屋岩蔭遺跡巨石群・F石とE石 岩屋岩蔭遺跡巨石群・F石の突出部
岩屋岩蔭遺跡巨石群。雨水の日と霜降の日に、F石とE石の隙間から太陽光が射し込み、F石の突出部に太陽光が当たる。
岩屋岩蔭遺跡巨石群・b石に射し込む太陽光 岩屋岩蔭遺跡巨石群・F石の突出部
岩屋岩蔭遺跡巨石群。雨水の9日後と霜降の9日前に、F石とE石の隙間から太陽光が射し込み、測定石b石の先端に太陽光が当たる。

線刻石のある巨石群

線刻石のある巨石群
線刻が刻まれた線刻石のある巨石群のA石(線刻石)
線刻石のある巨石群
線刻石の下の空間。夏至の日とその前後、太陽光が刺し込む。
線刻石のある巨石群 線刻石のある巨石群
線刻石のある巨石群。写真は夏至の30日前、小満の日にB石とC石の間を朝日が通って、線刻石の下の空間に太陽光が入る。

主に夏至を挟んだ夏の期間の太陽を観測する。

  • 霜降から冬至を挟んで雨水まで、B石とB'石の隙間に山に沈む太陽光が射し込む。冬至はV字の下端に見える。
  • 夏至の頃、線刻と三角状石面の石の洞窟に朝の太陽光が射し込む。
  • 小満から夏至を挟んで大暑まで、線刻下の洞窟に南中前後の太陽スポット光が射し込む。
    そのスポット光の形は、線刻の石面に刻まれた3つの楕円形と同じ形が順次見られる。
  • 穀雨から夏至を挟んで処暑まで、朝の太陽光が、B石とC石の間を通り、A石下の空間へ射し込む。
  • 穀雨と処暑の13時頃に、線刻隣接の三角状石面に、点線状の光が当たる。

線刻石にはその名の通り2本の太い斜めの線と3個の小穴がが石面に刻まれている。 小林氏によるこの発見が、後に縄文時代の太陽観測遺構の研究につながっていく。
小穴は線刻の下の空間に太陽光が射しこみ地面に当たった形とサイズが同じことがわかり、 夏至を知る場所を石に刻したものだった。
さらに、空間上部の三角面に、小満の日と大暑の日に「光の点線」が現れることで、人工的な加工が施されている。

線刻石のある巨石群・A石の北側
小満の日と大暑の日(夏至の30日前と30日後)、三角状の石面に現れる光の点線。
線刻石のある巨石群・B石とB'石
冬至の日(を挟む霜降から雨水まで)、線刻石のある巨石群・B石とB'石の隙間に射し込む夕日。

東の山巨石群

東の山巨石群
東の山巨石群。冬至の日に山から昇る朝日。(2008/12/21 9:09)

主に冬至を挟んだ冬の期間の太陽を観測する。

金山巨石群の太陽カレンダー


太陽の年周運動と12の季節

地球の軌道はほぼ円形で、地球は1年で太陽の周りを公転し、1日1回自転をしている。
地球の自転軸は公転面に対して約23度26分傾いている。(黄道傾斜角)
自転軸が傾いた状態で地球が太陽の周りを公転すると、地表面に入射する太陽高度の年変化、すなわち北極側が太陽を向く半年(北半球の夏)と南極側が太陽を向く半年(北半球の冬)が一周ごとに繰り返される。
太陽光入射角の変化は日照時間の変化として気候と生物に影響を与え、季節の移り変わりとなる。

地球の公転軌道と二十四節気の中気
地球の公転軌道と二十四節気のうち12の中気の位置。
観測点が北緯35.5°黄道傾斜角が23.5°として夏至と冬至における太陽の南中高度を示す。
地上から見た太陽の運動
地上から見た太陽の日周運動と正午の太陽。
観測点が北緯35.5°として夏至と冬至における太陽の高度を示す。

太陽の動きを暦とする

太古から人は太陽と月の動きを観察し、月の満ち欠け (朔望月=約29.5日)が概ね12回で太陽の1周期になることがわかっていた。 このことから1年を月の動きを基準にして12の朔望月に分けて考えた。
だが朔望月を年12か月とすると、年間約354日で暦が季節と食い違ってしまう。
太陽暦とのずれは、約3年に1度の閏月として1ヶ月を加えて調整をする。これが太陰太陽暦である。
古代から明治初頭まで我が国の暦は太陰太陽暦が用いられていた。
一方、太陽の動きを基準に、1年の365日または366日を12の期間に区切ることで季節と暦の食い違いを解消する暦が太陽暦である。
ところが歴史上は記録のない太陽暦が、縄文時代に既に利用されていたという証拠が実際に存在する。それが金山巨石群だ。

一年を12の季節に分けて観測

太陽暦といっても1月は31日、2月は28日か29日というカレンダーではない。
金山巨石群では3か所の巨石群に配置された巨石の配置角度から太陽の方位と高度を読み、12の季節を知ることが可能である。
12の季節は太陽が黄道上を1年で一周する動きを、30度ごとに12に分けると、便宜的に二十四節気の中気の名を振り分けることができる。
春分を黄経0度とすれば30度ごとに、→穀雨→小満→夏至→大暑→処暑→秋分→霜降→小雪→冬至→大寒→雨水→春分 の12である。
金山巨石群の太陽観測は二十四節気の中気の日を観測する仕組みになっている。

アナレンマと二十四節気の中気

アナレンマ とは、観測点の同じ場所から同じ時刻の太陽を1年間重ね撮りをした場合の形が8の字を描くことをいう。
8の字の形に二十四節気の中気を重ねると、 太陽高度(赤緯のこと)は夏至と冬至の丁度中間に、春分と秋分が位置する。 さらに、夏至と春分・秋分の丁度中間に穀雨と処暑があり、春分・秋分と冬至の丁度中間に雨水と霜降がある。(右下の図)
この図を「ものさし」として、金山巨石群に配置された太陽観測ポイントで観測シミュレーションを行う。

アナレンマと太陽の観測位置

右下の図は、金山巨石群(岩屋岩蔭遺跡)から太陽を観測した場合の天空に、毎正時のアナレンマを配し、 主要な太陽観測ポイントからの太陽方位と高度を、一枚に集成した図である。
この一枚に一年間の太陽の位置(日時・方位・高度)が図示されている。

金山巨石群 正午のアナレンマ
金山巨石群から見た正午のアナレンマ図。
夏至の太陽高度が78°、冬至の太陽高度が31°を示す。
金山巨石群の太陽カレンダ
金山巨石群の太陽カレンダー
毎正時のアナレンマ図に金山巨石群の主な観測日時の太陽位置を示す。

金山巨石群の太陽観測

金山巨石群から太陽を観測した場合の、主要な観測ポイントに番号を付けた。

@線刻石の下の空間に光が射しこむ。 (線刻石のある巨石群/夏至 6:00〜7:30)
A線刻石:夏至の楕円スポット光。 (線刻石のある巨石群/夏至 11:30〜13:00)
B線刻石三角状石面へ光の点線。 (線刻石のある巨石群/小満 12:50〜13:00/大暑:13:00)
C岩屋岩蔭春分秋分の頃岩陰へのスポット光。 (岩屋岩蔭遺跡巨石群/春分・秋分 9:00〜13:00) 
D岩屋岩蔭の隙間に夕日が差し込む。 (岩屋岩蔭遺跡巨石群/春分16:50〜17:00、秋分 16:30〜16:40 
E岩屋岩蔭うるう年のわかる測定石へスポット光。 (岩屋岩蔭遺跡巨石群/雨水+9日 10:00〜10:30、霜降−9日 9:28〜10:00)
F岩屋岩蔭F石突出部にスポット光。 (岩屋岩蔭遺跡巨石群/雨水 13:23、霜降 12:52) 
G線刻石冬至の日が山に沈む方向。 (線刻石のある巨石群/冬至:16:10) 
H東の山冬至の太陽が現れる方向。 (東の山巨石群/冬至 10:30)

線刻石の下に朝日が射しこむ 線刻石の空間:隙間から楕円スポット光楕円スポット光 線刻石の空間:三角状石面へ光の点線 岩屋岩蔭:岩陰内にスポット光(春分・秋分) 岩屋岩蔭春分秋分の頃岩陰へのスポット光 岩屋岩蔭:うるう年のわかる測定石へスポット光 岩屋岩蔭内部:F石突出部にスポット光 線刻のB石:冬至の日が山に沈む方向 東の山冬至の太陽が現れる方向

@線刻石の下の空間に光が射しこむ A線刻石:夏至の楕円スポット光 B線刻石三角状石面へ光の点線 C岩屋岩蔭春分秋分の頃岩陰へのスポット光  D岩屋岩蔭の隙間に夕日が差し込む E岩屋岩蔭うるう年のわかる測定石へスポット光 F岩屋岩蔭F石突出部にスポット光 G線刻石冬至の日が山に沈む方向  H東の山冬至の太陽が現れる方向

太陽観測日 時刻表

月日1/20頃2/19頃2/28頃3/21頃4/20頃5/21頃6/21頃7/23頃8/23頃9/23頃10/14頃10/23頃11/22頃12/22頃
二十四節気
(中気)
大寒 雨水 雨水
+9日
春分 穀雨 小満 夏至 大暑 処暑 秋分 霜降
−9日
霜降 小雪 冬至
岩屋岩蔭遺跡
巨石群
9:30

13:23

16:30
10:00

10:30
9:00

13:00

16:50

17;00
16:206:40

17;40
16:209:00

13:00

16:30

16:40
9:28

10:00
10:15

12:52

16:00
10:30閏年の前年は霜降−8日もスポットが当たる
線刻石のある
巨石群
16:2016:307:15

16:20
12:50

13:00
6:00

7:30

11:30

13:10

15:00

16:30

17:00
13:007:45

11:30

13:00

16:30
16:0016:0016:10
東の山巨石群登×
10:10
登8:20
9:40
登7:30
8:50
登;登山出発
登×:凍結のため登山不能
太陽カレンダーシミュレータ再現館13:2013:0012:3512:1512:4012:4512:5513:25
太陽黄経(度)3003303390306090120150180189210240270
太陽赤緯(度)-20.1-11.5-8.20.0+11.5+20.1+23.4+20.1+11.50.0-8.2-11.5-20.1-23.4
南中高度(度)34.142.846.154.265.774.477.774.465.754.246.142.834.130.8
・この表は、金山巨石群調査資料室の太陽観測日資料を編集して、金山巨石群で太陽観測ができる特定の日時を時刻表にした。実際の観測は天候その他により変更や中止がある。

金山巨石群の太陽カレンダーとは

金山巨石群では、巨石群の複数の観測ポイントで太陽の年周運動と日周運動によって、太陽がそれぞれ特定の位置に来る日を待ち構えて、方位と高度が一致したとき、 1年に12回の二十四節気の中気の日を知る仕組みができている。
縄文時代の太陽観測は、1年を12に区切って季節知ることを目的としたものであった。
12の季節とは月の動きと深く関わっていたであろうことは想像が付く。1年を12か月とすることは、縄文時代に認識されていたのである。
それが太陽観測装置としての機能であり、金山巨石群の太陽カレンダーである。

アナレンマと二十四節気

再現館のアナレンマ
太陽カレンダーシミュレータ再現館に射し込む太陽光は、岩屋岩蔭遺跡の洞窟左奥の石面に当たる太陽スポット光を模した構造であり、 太陽の1年間の軌跡(アナレンマ)図を使えば、太陽高度と石面に当たる時刻差の説明ができる。
金山巨石群・連続アナレンマ図
金山巨石群から見た一年間の太陽の運動。連続アナレンマ図

閏年の観測


岩屋岩蔭遺跡のb石
岩屋岩蔭遺跡のb石に当たるスポット光。(2010/10/14 9:29)
岩屋岩蔭遺跡のb石
金山暦の説明案内板。左下の「春分・秋分の頃の太陽観測ができます」にスポット光の説明がある。

岩屋岩蔭遺跡の岩陰内にある3つの石のうちb石にスポット光が、毎年2/28と10/14に当たる。
金山巨石群調査資料室によると、 スポット光は1日に4cm移動する。同じ日付の1年後は1cmずれる。4年で4cmは1日分になる。 4回のうち1回は、ずれのため翌日も端に掛かることになる。光の当たる日付は閏年のプラス1日でリセットされ、4年セットの同じ日付に光が繰り返し当たることになる。
小林氏は、4年で1461日を1周期とする暦を使ったものとして「金山暦」を提唱した。
夏の日数と冬の日数をそれぞれ一定日数とする「金山暦」は、うるう年の測定を、BC1000〜500年以降の閏年測定に適用されると考えて「金山巨石群 推定2500年前」とする根拠になっている。

地球の公転軌道は近日点移動のため少しずつ季節の長さが変わる。
小林氏によると、測定石はb石の他にも地面の下に存在し、まだ発見されていない可能性が高いという。もし別の測定石がある場合は2500年前という縛りは無くなる。

2013年2月に40年前に岩屋岩蔭から見つかっていたのがわかった「白い小石」は、測定石に当たるスポット光と同じ形で、 10月15日に当たる太陽光の大きさが4年に1度だけ小石より大きくなるという。
さらに4年毎の位置はすこしづつずれることがわかり、132年に1回うるう年を省けば、現在の太陽暦より高精度な修正ができる、という結論を導き出した。 [3]

岩屋岩蔭遺跡巨石群・小石 岩屋岩蔭遺跡巨石群・b石と小石
2013年2月に40年程前に岩屋岩蔭から見つかっていたのがわかった「白い小石」は、測定石に当たるスポット光と同じ形で、 10月15日に当たる太陽光の大きさが4年に1度だけ小石より大きくなる。縄文時代にうるう年を知ることができた証拠の石と考えられる。

北斗七星と北極星の観察


岩屋岩蔭遺跡巨石群のE石
岩屋岩蔭遺跡巨石群のE石の壁面にLEDを点灯。北天の空に北斗七星が見える。
岩屋岩蔭遺跡巨石群のE石
岩屋岩蔭遺跡巨石群のE石の壁面に穿たれた北斗七星。
岩屋岩蔭遺跡巨石群のE石
BC5500年の北天の星図を上下反転した星図。反転図はE石の北斗七星と相似形。
岩屋岩蔭遺跡巨石群のE石
E石の北斗七星に対応するBC5500年の天の北極はE石の頂部にあたる。

逆向きの北斗七星

初夏の宵に北斗七星が北天の空高くに見える。 北斗七星から北極星を見つけることができる。
J石から北天を見ると、岩屋岩蔭遺跡巨石群のE石の真上に北極星が見つかる。
J石とE石は、それにH石(立石=メンヒル)を加えて、 石の配置は南北線に一致している。

J石の南面は、北へ約35度の傾斜角で、これは緯度と同じため、斜面に沿って北を見ると北極星(天の北極)の位置を示す。

E石の東側石面に刻まれた盃状穴をつなぐと北斗七星の形になっている。

星たびは、E石の北斗七星は、E石頂部を天の北極と見なし、 シミュレーションの結果、7500年前(BC5500年)の北天を表しているものと考えました。
古代人の宇宙観に、天蓋説、 或いは渾天説があります。 「天は鶏の卵殻のように球形であり、地は卵黄のようにその内部に位置しているとする。」 宇宙は有限の空間でその外側は神様の世界だというものです。(渾天説)
その神は、天の北極の星座の「北辰」に在るというもので、逆向きの北斗七星は、神の世界から見た形です。 巨石に刻まれた北斗七星に対し、その当時の天の北極に相当する位置が巨石の尖端に相当します。

天の川の方向


天の川の方向
1万2000年前(BC10000年)の天の川の方向。細線は1000年ごとの銀河赤道。天の川の方向は歳差運動で方向を変える。

J石の北西面

J石の北西側の面は垂直面になっている。 方向に意味があり、その延長線が線刻石のある巨石群のD石接線方向に向かっている。
このラインは(真南を0度として)北東222度〜天頂〜南西42度の方向で、 縄文時代草創期の1万2000年前(BC10000年)の 天の川が天頂を通る方向に一致する。

地球の歳差運動のため、1万2000年前の冬に、天の川は天頂にさそり座、北東に はくちょう座、南西に 南十字星が見えていた。
銀河系中心方向の濃く明るい天の川が、光害の無い星空が満天に見えていた。
現在の夏の大三角形(ベガ・アルタイル・デネブ)は、北天に春の大三角形としてあった。

J石
J石の南西側から。南面(右)が35度の傾斜角。北垂面(左)延長方向にD石が見える。

金山巨石群の推定年


J石から北極星
J石から見える北極星と北斗七星の説明とともに、推定年がBC1000〜500頃との記載がある。
BC5500年のアナレンマ
BC5500年の太陽の軌跡アナレンマ。歳差運動で地軸の傾きが逆のため、8の字の上部と下部が現在と逆になっている。 図の光芒の位置の太陽光がb石先端に当たるから閏年の観測は可能。

まず「金山巨石群は今から2500年前」という誤解を解いておく必要がある。
縄文時代に金山の古代人は暦を使ったとして教育書に載った「金山巨石群、推定2500年前」としたこと。 それに、現地の説明板に「なぜBC1000〜500頃?」にあるとおり、 岩屋岩蔭遺跡b石の太陽光の観測で、夏と冬の季節間に日数の変化が無く、 暦として成立するのは今からほぼ3000年前、確実には2500年遡るまでというのが基準になっている。
2500年前は建造した年代ではない。

これは、地球の公転軌道の近日点のずれによる季節間の日数が変化することにあった。
地球の自転公転により 太陽や天体日周運動年周運動となって 天球上での見かけの運動となる。
公転軌道面に対する自転軸の傾きから季節が生まれる。
地球の公転軌道は円に近いが、僅かに楕円軌道である。 このため近日点があり、近日点を含む秋分〜冬至〜春分のほうが日数が少ない。

金山巨石群の閏年観測から暦を算出するとき、季節の日数を均等と考える平気法として考えている。
だが、実際は 二十四節気間で日数の変化があり、 定気法で行うのが、実際の太陽の動きに合っている。

定気法て年代を遡ってシミュレーションをしたところ、さらに古くから暦の測定をすることができると考えた。
岩屋岩蔭遺跡のb石にスポット光が当たるとき、アナレンマ図は、太陽が方位319.10度(E 49.10度 S)、高度36.61度の近似位置を通過する。
BC5500年の縄文時代にあっても太陽はこの高度を通過しており、 1年365日を3回(3年)繰り返し、4年目を366日の閏年として、4年で1461日を1サイクルとして暦年が測定できることを示す。

閏年の観測

岩屋岩蔭遺跡に北斗七星が刻まれたと推定する縄文時代早期の7500年前で 閏年観測のシミュレーションをしたところ、そこでもb石の観測により、閏年の測定は可能との結果を得た。

岩屋妙見神社 線刻石のある巨石群
BC5500年頃、岩屋岩蔭の測定石(b石)に当たる太陽スポット光の経年変化。 黒線:4年毎の光の位置(太陽高度)。赤線:b石に当たる、青線:b石から外れる。春(左)と秋(右)で合わせて33年目で1/4日分ずつずれることで置閏法が成立する。

33年8回の置閏法は、1年が365.2424日となり、地球の公転周期(太陽年)の365.2422日と極めて近似している。
このシミュレーションは、BC5500年頃にあってもb石で閏年の観測ができていたことを示すものである。

金山巨石群の築造年代

岩屋岩蔭遺跡巨石群
岩屋岩蔭遺跡巨石群から8000年前の土器片が出土した。縄文時代早期には既に存在したことになる。

金山巨石群はいつ築かれたのか。
岩屋岩蔭遺跡巨石群のF石(中央石)の庇の下面は、雨水と霜降の日の太陽高度に合わせて40度の傾斜角になっている。
E石とF石の2つの石の隙間構造は、太陽の角度に現場で合わせて隙間を削り出すことはできない。 前もって隙間と測定石の位置を角度を合わせて組み立てなければ、太陽測定で精度を出すことは難しい。
これほど精緻な技術を持った金山巨石群が造られた時代はいつなのか。

逆向きの北斗七星が刻まれたのは、7500年前の形を写している。
岩屋岩蔭遺跡の発掘調査の結果、8000年前とされる土器片が出土した。
岩屋岩蔭遺跡巨石群は、少なくとも縄文時代早期に既に存在したことになる。

雨水と霜降の日を知る前に、基準となる夏至を知ることが重要で、 夏至を測定する目的の線刻石のある巨石群は、岩屋岩蔭遺跡巨石群の築造前から存在していたはずだ。
東の山巨石群は冬至を測定する。線刻石のある巨石群の機能を補完するための測定装置だ。

線刻石のある巨石群と岩屋岩蔭遺跡巨石群の位置を決めるには、J石を設置するべきだ。
J石を南側から見た三角形は1万2500年前に天の北極を囲む3つの星があったことを示唆している。 南北の基準線が最初に設置されていた。こうして築造の順序を推定する。

敢えて金山巨石群の年代を推定するなら、
およそ1万2000年前から始まり、8000年前までの間に順に築造され、7500年前に北斗七星が刻まれたといえます。

金山巨石群の年表


時代区分 時期 区分 西暦 年前 金山巨石群 世界史・日本史
旧石器時代   BC19000 2万1000年前   最終氷期の最寒冷期
  BC14000 1万6000年前   寒冷、乾燥
縄文時代 草創期 BC11000 1万3000年前〜   気候変動期。季節的定住の始まり
BC10500 1万2500年前 天の北極を囲む3つの星  
BC10000 1万2000年前 J石、線刻石のある巨石群の設置(推定) 次第に温かく、広葉樹拡がる
早期 BC8000 1万年前〜 東の山巨石群の設置  
岩屋岩蔭遺跡巨石群の設置  
BC6000 8000年前 石器、石鏃、押型文土器  
BC5500 7500年前 E石の北斗七星を刻む
閏年の観測(天文シミュレーション)
暖かく 照葉樹林に木の実豊か
鬼界カルデラ・アカホヤ噴火(7300年前)
BC5000 7000年前   縄文海進 黄河文明(前5000〜)
前期 BC4000 6000年前〜   シュメール文明(BC3800頃〜)
中期 BC3000 5000年前〜    
BC2800 4800年前 北斗七星と トゥバンを見ていた(説)  
      ギザの大ピラミッド(BC2540頃)
      ストーンヘンジ(BC2440年頃)
後期 BC2000 4000年前〜 石鏃 粗製土器。狩猟のキャンプ地[追記1]  
晩期 BC1000 3000年前〜   甲骨文字(BC14C〜BC11C)
  2500年前 太陽観測による太陽暦使用(推定)  
弥生時代   BC300 2300年前 穿孔磨製石鏃。儀礼的な場 前漢の「 淮南子」に「宇宙」(前2C)
  BC200 2200年前   テオティワカン
古墳時代     3世紀中〜   卑弥呼(247) 纒向遺跡
日本で最初の元嘉暦(570)
飛鳥時代   592年〜      
奈良時代   710年〜      
平安時代   794年〜 1156〜1160年 悪源太義平 ヒヒ退治(伝説) 保元の乱(1156)
鎌倉時代   1185年〜      
(この間 略)          
江戸時代   1603年〜   妙見神社(賽銭)  
明治時代   1868年〜     明治維新(1868)
昭和(戦後)   1945年〜   岩屋ダム竣工(1976)  
平成時代   1989年〜   金山巨石群調査開始(1998)  
        岩屋岩蔭遺跡発掘調査(2001)  

パワースポット


線刻石のある巨石群
線刻石のある巨石群は六芒星の配置になっている。
岩屋岩蔭遺跡巨石群のE石
岩屋岩蔭遺跡巨石群のE石の尖端は神の依り代。

パワースポットを目的の方を含めて、一般の来訪する皆様に。
金山巨石群、岩屋岩蔭遺跡は縄文時代に祭祀を目的に築造された巨石遺構です。
特に線刻石のある巨石群では、現在も「巨石パワー」を感じるポイントとして存在しており、 特殊能力を保持する方にとっては聖地になっています。どうぞ静かにお訪ねください。

宇宙観

縄文時代は、最近の研究によると、単純な狩猟採集の生活ではありませんでした。 暖かい気候で、野菜や穀物の栽培を行い土器で煮炊きをし、犬を飼い、地域間の交流も行われていました。 山川草木、季節のなかで日々の暮らしがあり、日月星辰[8]を崇ていました。 人々は。自分たちの生命と時間と空間を探求していたのでしょう。
過去現在未来と流れる時間と、毎日、毎月、毎年、繰り返される惑星の動きを見て、 我々の大地を覆い被さるように天球が覆い、無数の光が天球の向こうから漏れて見えていると見たのでしょう。
天球は天の北極(現在北極星のある付近)を中心に回っています。 向こう側には誰かが居て、もの凄い力で天を回しているのではと。 それが神であれば、畏れながらその力で願いをかなえてほしい。
「逆向きの北斗七星」は、神が天球の向こうから見た形の「北斗七星」。神を迎えるための道しるべです。
さらに、天の川の流れが縦になるとき、天の向こうに逝った先祖を迎えます。 日本人の心の習慣が縄文時代から続いているのです。
金山巨石群は、縄文時代の 宇宙観を 今も形に残している大変貴重な場所なのです。

地図


外部リンク


追記


脚注


  1. ^ 「岐阜県指定文化財・史跡 岩屋岩蔭遺跡発掘調査報告書」2002.3 金山町教育委員会 (岐阜県による一部発掘調査の報告書)
  2. ^ 「金山町史」1975 金山町教育委員会
  3. ^「縄文人、うるう年を知っていた?」朝日新聞岐阜版 2013.3.8
  4. ^ 九州高等学校歴史教育研究協議会の編集による『図説 世界史』 高等学校 世界史用カラー資料集) 平成20年4月1日発行/教育図書出版(株)啓隆社
  5. ^ 太陽信仰: 太陽神 - Wikipediaを参照
  6. ^ 北辰信仰: 妙見菩薩 - Wikipediaを参照
  7. ^ 日月星辰: 観象授時 - Wikipediaを参照

謝辞

「星たび」のページ


改訂履歴