![]() 岩屋岩蔭遺跡
岩屋神社(旧称妙見神社)、金山巨石群の岩屋岩蔭遺跡巨石群 |
岩屋岩蔭遺跡は縄文時代の天文台か?との問いに、答えはYESです。
これは、2001年度に行われた岩屋岩蔭遺跡発掘調査報告書と、金山巨石群調査資料室による調査と研究から、改めて独自に精査した岩屋岩蔭遺跡の報告です。
岩屋岩蔭遺跡(いわやいわかげいせき)とは、
岐阜県下呂市金山町岩瀬字高平の妙見谷の傾斜面にあり、左右の巨石に更に覆い被さるように構成される遺跡。
2001(平成13)年度に発掘調査が行われ、縄文早期の土器や石器などの遺物が出土した。
金山巨石群の岩屋岩蔭遺跡巨石群。地元の金山巨石群調査資料室の長年にわたる観測と研究により、
巨石の隙間から射しこむ太陽光と光が当たる石面など太陽暦を観測したと考えられる多数の状況証拠が見つかっている。
これまで岩屋岩蔭遺跡は縄文時代の天文台ではないか?と言われているが、公には認められていない。
祖師野八幡宮の飛地境内となっている岩屋神社(旧称:妙見神社)の岩社。岩陰に本殿が鎮座する。
悪源太義平こと源義平による
邪神(狒狒)退治の口承伝説により1973年岐阜県史跡に指定されている。
![]() 発掘調査が行われた岩屋岩蔭遺跡の内部
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2001年度(平成14年3月)に当時の金山町教育委員会によって発掘調査が行われた。結果は「岩屋岩蔭遺跡発掘調査報告書」にまとめられている。
発掘調査で岩陰から多数の石器や土器片が出土し、このうち押型文土器片が土器編年によって8000年前の遺物と推定された。
したがって岩屋岩蔭は8000年前の紀元前6000年頃には既に築造されていたと考えられる。
発掘調査の報告書によると、「岩蔭の利用は縄文早期から」とあります。
発掘調査の際、社殿西側の調査トレンチ1の、X層と呼ぶ褐色粘質土層から出土した土器片4点(2〜3cm×7mm程)のなかに年代を決定づける遺物が出土しました。
楕円文が2点と山形文が2点あり、いずれも別個体の押型文で、うち1点が黒鉛混じりのため、沢式に位置づけられるとあります。
沢式は樋沢式ともいい、土器編年による樋沢遺跡(長野県岡谷市/塩尻市)出土の土器の様式に類似している沢式が縄文早期に相当するとして、
縄文早期は、約1万年前から6千年前までの間として、報告書序文に「岩屋岩蔭の利用は8000年前からあったことが解ります」と書かれています。
![]() 岩屋岩蔭遺跡のある岩屋妙見神社の神域
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発掘調査の報告書は、岩屋岩蔭の巨石は山から崩れて今の位置にある自然崩落説を考えている。
しかし、自然崩落説では説明がつかない事象がある。
それはまるで設計したように礎石の上に巨石が置かれていることだ。
@A発掘調査でトレンチ掘削後の土層面(発掘調査報告書より)
発掘調査の報告書には、
「岩屋岩蔭は流紋岩質溶結凝灰岩と濃飛流紋岩の巨石の上に、北から濃飛流紋岩の巨石が庇状に覆い重なって形成されている。
これら岩陰を構成する巨石は石の種類も堆積方向も谷底付近のものとは異なっており、山からの崩落によるものと考えられる。」
とし、さらに
岩陰内には外からの木の根が入り込んでいることから、「岩陰を構成する巨石は現地表面からそれほど深くないところに乗っている状態であると考えることができよう。」としています。
報告書には土器片の出土したX層より下の記述もあり、
Y層以下には遺物の記載は無く、Y層が褐色礫混粘質土層、Z層が暗褐色粘質土層、[層が赤褐色粘質土層となっており、いずれも岩陰形成以前の自然堆積によるものとしています。
![]() 岩屋岩蔭遺跡、岩屋妙見神社、金山巨石群の岩屋岩蔭遺跡巨石群
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岩屋岩蔭を構成する岩石の濃飛流紋岩は、岐阜県北部の飛騨北部から御嶽西麓、東濃を含む広い範囲に分布しています。
火山噴出物の再溶融によって形成されたもので、一般名は溶結凝灰岩です。
中生代白亜紀後期に大規模なカルデラ噴火があり、
噴出物が火砕流となって地上に堆積し、自らの熱で溶融し高温高圧で圧縮されたものです。
岩石には石英を多く含みます。石英は、二酸化ケイ素 (SiO2) が結晶してできた鉱物で、硬く風化に強い性質があります。
また、金山巨石群調査資料室によると、岩屋岩蔭を構成する一つの巨石は3基の礎石の上に据わっていてがっちり咬み合って地震ではびくともしない構造になっているという。
縄文早期に築造された当時の形状を今もそのまま保っているといえます。
![]() 岩屋岩蔭遺跡の前(岩屋妙見神社の境内)で行われた夜祭り(2013年3月)
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発掘調査の報告書では、縄文時代から太陽や星を観察して暦を告げる天文台ではないかとの調査も(並行して)進められているとして、
発掘調査での天文台か否かを含め天文に関する記載は無い。
一方報告書には、遺跡は縄文時代の狩猟のための一時的なキャンプ地だとしている。
しかし精査してみると、狩猟のためのキャンプ地ではなく、祭祀の場と考えるほうが適切である。
公的機関はA新聞(2013年3月8日)の取材に対して、
「遺跡は、縄文時代の狩猟のための一時的なキャンプ地。01年度の発掘調査でも、天文台としての証拠は確認されていない。」と答えています。
縄文時代早期の生活が狩猟採取であったことは間違いのないことですが、岩屋岩蔭の目的が狩猟のためだったのでしょうか。
狩猟のためのキャンプ地と判断する根拠について精査しました。
発掘調査報告書に狩猟のためのキャンプ地と記載されているのは、
「縄文後期〜晩期の利用」の項に、 「(町内の祖師野遺跡でみられたような)植物採取、加工の道具は一切見られず、
石鏃(せきぞく・石の矢じり)が多く粗製土器片がほとんどであったことからこの時期においても狩猟のキャンプ地として岩屋岩蔭が利用されていた。」とあります。
「この時期においても」は「岩陰の利用は縄文早期から」を受けているので、縄文早期は約1万年前から、縄文晩期2300年前までをまとめて"狩猟のキャンプ地"となります。
報告書の「縄文時代早期〜中期の遺物」に、 「いくらかの石器には被熱の痕跡が認められるが焼土などはみられない。」とあり、出土品63点中、2点の石器に「被熱」による「ひび」と「割れが見られる。」ことを言っています。
言い換えれば、岩屋岩蔭遺跡内の発掘調査で、縄文早期〜中期(約1万年前〜4千年前)の層から出土した2点の石器に被熱による痕跡が見られたから、「焼土などはみられない」の説明を省いてでも、狩猟のキャンプ地なのだ、として、被熱から焚き火を連想しているように思えます。
「岩屋岩蔭遺跡報告書」より |
報告書には、「金山町ではじめて確認された弥生時代遺物」の項で、
「弥生時代の土器片とともに穿孔磨製石鏃が見つかっている。岩屋岩蔭は、弥生時代には何らかの儀礼的な場にもなっていたようである。」として、近隣で出土した「祭祀」の遺物の例をあげて間接的に説明しています。
そうであれば、「狩猟のためのキャンプ地」から「祭祀の場」に変わっているのは不自然です。
この時期においても、縄文時代以来変わらず祭祀の場であったと考えるべきです。
粗製土器片が多いのは、食べ物を煮炊きする通常の土器ではなく、祭祀的な意味で、叩き割って壊すための土器と考えては如何でしょうか。
「被熱の痕跡」や「ひび」と「割れ」は、炊事の火の痕跡ではなく、神事で石器を焼いた跡です。
中国の殷墟から見つかった甲骨文字は、亀の甲羅や獣骨に占文を刻み、穿孔した小穴に熱した金属棒を刺して「ひび」や「割れ」で神占をしたといいます。
岩屋岩蔭から出土した被熱した石器は、神占に使ったと考えてもよろしいでしょう。
また、石鏃が多く出土したからと、石の矢じりが狩猟具だけに使うものではなく、祭祀の際に矢を使うことがあります。
矢は邪悪を祓う神聖なものとされています。白川静氏の著書には「矢」は「たとえば誓約のときにそのしるしとして矢を用いるので『矢(ちか)う』という読み方がある。矢を折ることは誓うときの所作であった。」とあります。誓う相手は神様です。
縄文時代に岩屋岩蔭遺跡が、狩猟のためのキャンプ地だと断定できるものではなく、祭祀の場所であったという考えを排除できるものでありません。
「天」の神様の意思を伺う儀礼として、「天文」と「祭祀」とは、同義的な意味を持つ密接な関係があったのです。岩屋岩蔭は初めから祭祀の場であって、弥生時代も江戸時代も今も岩屋妙見神社として継続しているのです。
決して岩屋岩蔭遺跡は狩猟のためのキャンプ地ではありません。
![]() 岩屋岩蔭遺跡巨石群のE石の壁面にLEDを点灯。北天の空に北斗七星が見える。
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金山巨石群では岩屋岩蔭遺跡巨石群の東からE石・F石・G石、立石をH石と称し、
岩屋岩蔭から南50mにあるJ石からE石の上を見ると、真北の高度35度の地軸方向に北極星が見える。
岩屋岩蔭のE石の石面には穿たれた裏返しの北斗七星が見つかっている。
金山町観光協会のイベントでは石面にLEDを点灯している。
金山巨石群調査資料室では、地軸の歳差運動で北極星は移り変わっていることを説明して、岩屋岩蔭は4500年以上前に造られていたとしている。
北斗七星のα星の先を延ばすと北極星ポラリスがあります。
現在の地軸の方向にあるポラリスですが、地球の歳差運動で地軸の方向は変わります。
例えば紀元前2800年の地軸はりゅう座の
トゥバンの方向に向いていました。
ギザの大ピラミッドの建造はそれからまもなくです。
ところで、妙見神社の妙見とは、北極星を神格化した北辰妙見のことで、祖師野八幡宮へ合祀される1972年以前は、
天常立命、
秘めて国之常立神
(天地開闢の際に出現した根源神)が祀られていました。
古代ヘブライの宇宙観では、大地と海は巨大な丸天井に囲まれており、その外側は神の世界。
神から見た北斗七星は裏返しになり、石面の北斗七星は神を呼び寄せる道標となります。
E石の頂部はマナ(外来魂=神)が宿る依り代で、これが磐座信仰から
古神道につながります。
![]() 岩屋岩蔭遺跡の北斗七星に対しE石の頂部は、BC5500年頃の天の北極の位置にあたる。
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石面の北斗七星に対し歳差による7500年前の天の北極の位置に相当することがシミュレーションにより判明して、
北斗七星は岩屋岩蔭が築造後の縄文早期BC5500年頃に彫られていると推定しました。
縄文早期のBC5500年の天の北極付近には輝星はありませんでした。
それでも縄文人は北斗七星のζ星ミザールとη星アルカイドから漆黒の中に見える微妙な光を探しました。
天空を回転するほどの力を持つ神の存在を信じたのでしょう。
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「太陽カレンダーシミュレータ再現館」と小窓から射しこむ時の太陽の位置
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「太陽カレンダーシミュレータ再現館」は、
岩屋岩蔭遺跡のF石とE石の隙間から太陽光が射し込み、雨水の日と霜降の日にF石の突出部に太陽光が当たることをモデルに、
平成15年(2003年)に旧金山町が建設した建物。
太陽の年周運動を見学者が直接認識するための教育施設で、
5つの小窓から日差しが射し込むことで太陽高度がわかる仕組み。
岩屋岩蔭遺跡の太陽光が当たる方向と同じ南南西24度33分方向に向いて建てられている。
日差しが当たる日は、二十四節気の
〈夏至〉〈穀雨・処暑〉〈春分・秋分〉
〈雨水・霜降〉〈冬至〉の年に8回。
![]() 現地の説明板:金山巨石群の太陽観測
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金山巨石群と太陽暦について、1998年からの金山巨石群周辺群調査委員会の調査研究を引き継いで、
金山巨石群調査資料室が継続して調査研究を続けている。
岩屋岩蔭遺跡で現在の太陽の年周運動を継続して観測することで、太陽の年周運動と年間の日数と周期の関係を見出した。
この観測から、縄文人はこよみを読み取ったのであろうと推定した。
結果は公式ホームページ 日本の考古天文学と巨石群『金山巨石群と太陽暦』に公開している。
岩屋岩蔭遺跡では1年の日数がわかる。
測定石に1年に2回、2月と10月に当たるため、夏側と冬側の日数もわかる。
合わせて365日か366日になるが、期間を区切ることで縄文人はこよみを知ったのであろうと金山巨石群調査資料室は推測をしている。
ただし、現在の日数区分(137日と228日か229日)が、縄文時代にも当てはまるわけではない。
太陽を毎日同じ時刻に1年間観測すると8の字を描きます。この形をアナレンマといいます。
時刻を9時57分として描くと、雨水の日から9日目の2月28日に太陽の位置が高度36度52分になり、岩屋岩蔭の測定石に太陽光が当たります。
今から約8000年前のBC6000年としてシミュレーションを行います。
現在と同じ東から49度23分の方位で高度36度52分を通過する日時を探すと、雨水の日から10日目(ユリウス暦4/14)の10:07(JST)に該当します。
このとき岩屋岩蔭の測定石に太陽光が当たっていたわけです。
アナレンマの形を見ると、
現在は8の字の下側(南側)が大きく上側(北側)が小さく描かれます。
8000年前のアナレンマは8の字が逆に見えます。
なぜアナレンマの形が変わるのか。それを考えるために問題を出します。
現在の「こよみ」と、縄文早期の「こよみ」では何が同じで、何が違うのか。
ではクイズです。
第1問:今年のカレンダー(2016年)で、春分の日から秋分の日までの日数と、秋分の日から翌年春分の日までの日数では、どちらがどれだけ日数が多いでしょうか?
第2問:今から8000年前の縄文早期に、春分の日から秋分の日までの日数と、秋分の日から翌年春分の日までの日数では、どちらがどれだけ日数が多いでしょうか?
正解は、
第1問:@ 春分の日から秋分の日のほうが5日以上多い。
春分の日(3/20)から秋分の日(9/22)までは186日です。秋分の日から翌年春分の日(3/20)までは179日です。7日も差があります。
第2問:B 秋分の日から春分の日のほうが5日以上多い。
紀元前6000年の春分の日(ユリウス暦で 5/5)から秋分の日(同 11/1)までは180日です。秋分の日から翌年春分の日(5/5)までは185日です。
縄文早期に北半球では、秋分から冬を経て春分までのほうが長かったのです。
なぜこんなことが起きるのだろうか。
それは、地球の公転軌道が楕円で、太陽に近い位置(近日点)は移動するからです。
そして、アナレンマの形は近日点側が8の字の丸が大きく描かれ、遠日点側は8の字の丸が小さくなります。
現在2016年の近日点は 冬至に近い1月3日です。
地球は公転軌道上を近日点に近い側が速く通過します。
公転の角速度が大きく、均時差が変化するのでアナレンマの8の字の丸が大きくなります。
一方、紀元前6000年の近日点は 夏至のほうが近いのです。
夏至(ユリウス暦で8/5)から56日後(同 9/30)にあります。縄文早期は夏至側のほうが地球は公転軌道上の角速度が大きかったのです。
紀元前6000年のアナレンマの8の字は上側(北側)が大きく描かれます。
したがって春分の日、秋分の日を境に、夏側の日数、冬側の日数が違ってくる訳、お解かりいただけたでしょうか。
岩屋岩蔭遺跡の測定石先端に太陽光が当たる日で1年を分けると、現在は137日と228日か229日になります。
しかし、紀元前6000年では、143日か144日と222日になります。
現地の説明板「金山巨石群の太陽観測」にある 228日(229日)と137日の説明はわかり易さのため、現在に近い期間限定です。、
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金山巨石群調査資料室では岩屋岩蔭遺跡の測定石で太陽光の位置を継続して計測している。
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岩屋岩蔭遺跡巨石群の岩陰内では、
岩屋岩蔭を構成する巨石の隙間を通り抜けた太陽スポット光が、測定石の先端に当たるという現象について、金山巨石群調査資料室は詳しい観測をしている。
観測の結果、スポット光は2月28日と10月14日に当たり閏年の前年には10月15日も当たることで、閏年を含む4年間の繰返しを観測している。
しかも、長期の観測により4年毎の光の当たる位置が僅かにずれていくことが分かった。
金山巨石群調査資料室では、G新聞(2015年12月12日)の記事で、観測と太陽高度データから、4年周期のうるう年が128年周期で1日の暦のずれがあることを発表しました。 これは現行のグレゴリオ暦に一致する正確な暦を縄文人が知っていたのではないかと推定しています。
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測定石に当たる太陽光シミュレーション
縦軸に測定石頂点からの太陽光の当たる位置までの距離、横軸に時間(年)としています。 太陽光の当たる位置は、1年で約1cm、4年で約4cm、4年周期を繰り返して16年で0.5cmずれていた。 |
右の図は、取材を元にエクセルで描いたもので、太陽年と暦日の差を累加しています。
1999年10月15日に光は石の角に当たっていました。
2000年10月14日の光は石の角から約1cm下に当たりました。
2001年は角から約2cm下に当たり、2002年は角から約3cm下、2003年10月14日は角から約4cm下に当たり、
その翌日の10月15日にはちょうど石の角に当たりました。
翌年の2004年10月14日は角から約1cm下に当たりました。
4年周期を繰り返して4回目の2015年は10月15日に約4cm下、10月15日は石の角に少しだけ当たったのです。
そして、4年ごとの同じ日を比べていくと、1999年と2015年は0.5cmずれていたのです。
太陽年は日数で少数以下があるのに対し、暦年は365日または366日の整数。季節感との補正を行う法則が置閏法です。
現行のグレゴリオ暦が400年で97回のうるう年を設ける400年97閏法ですが、縄文時代は太陽年の値が現在とは違うため置閏法は33年8閏法が適切です。
縄文時代の太陽年観測施設である岩屋岩蔭遺跡。
金山巨石群調査資料室の縄文人はうるう年を知っていたのでは?とする仮説の置閏法 128年31閏法(@図)は、年平均日数がy=365+31/128=365.2421875日です。
検証をしたところ現在は合っていますが縄文時代を遡ると差が出てきます。(A図)
太陽年は変化することから、縄文早期の置閏法を再考すると、33年8閏法が浮上してきました。(B図)
測定石の先端に当たる光をそのまま読めば、1年の日数は365日で4年ごとに366日のうるう年がわかり、32年目は繰り延べて33年目を366日になります。
この場合の年平均日数は、y=365+8/33=365.2424242日となります。
計算上の平均太陽年は、約8000年前(BC6000年)では Y=約365.2425421日でしたから、
縄文時代を通して、うるう年の33年周期が適切(C図)で、岩屋岩蔭遺跡内の測定石で測定できていたことが推定できます。(D図)
うるう年の33年周期(33年8閏法)は、1年の日数は365日で4年ごとに366日のうるう年が入り、32年目は繰り延べて33年目をうるう年にします。
この方法で1年の平均日数が365.2424日となり、計算上縄文早期の太陽年と極めて近くなります。
岩屋岩蔭で測定できたのは、うるう年の33年周期です。
@128年31閏法(現在) A128年31閏法(BC10000年〜AD2200年) B33年8閏法(現在) C33年8閏法(BC10000年〜AD2200年) D33年8閏法(BC6100年〜BC5900年)
石面の北斗七星が彫られた推定年代のBC5500年頃、岩屋岩蔭の測定石(b石)に当たる太陽スポット光の位置の経年変化をシミュレーションしたところ、 うるう年の33年周期(33年8閏法)が春(2月相当)も 秋(10月相当)も測定石先端で測定できることがわかった。
縄文人はどのようにして世代を超えて伝えたのでしょうか。
一つの推理として、うるう年の置き方を丸く菊型図形にして、
菊の表の十六花弁を一枚おきに8枚をうるう年として、表裏八重菊の三十二の花弁を外周から順に一周して、最後に中心を平年とする全33区画。
日本の国章である
天皇家の家紋は十六八重表菊。16枚の八重菊で花弁は32枚(三十二弁菊)。中心を合わせて33区画の図形にしたのが菊の御紋章です。
菊の御紋に秘められた三十三年周期。皇室の祖神が太陽神の天照大神であることからの推理であります。
岩屋岩蔭遺跡巨石群の測定石で閏年の観測ができることから、こよみ(置閏法)の推定に注目されているが、
天文学では重要な観測をしていた。
それは、縄文時代の観測装置で太陽年が測定できたことだ。
太陽年とは、地球の公転軌道運動の1周期のことで、1太陽年は約365.242189日。
岩屋岩蔭では、y=365+31/128=365.2421875日と測定した。
岩屋岩蔭は、太陽年が高い精度で測定できる観測装置だ。
このことは、岩屋岩蔭遺跡は縄文時代の天文台であるといえる証拠になる。
地球が太陽を一周(公転)する1太陽年は、約365.242189日。
端数が長年蓄積すると季節がずれてくるので、2月29日のうるう日を置いて調整する。
365日の平年を3回と366日の閏年を1回はさんで、4年ごとに閏年を置く置閏法がユリウス暦。計算上の1年は365.25日。4年ごとに閏年を繰り返すと、128年目で1日多くなる。
そのため現行のグレゴリオ暦では400年で97回の閏年を置いて、 年平均日数y=365+97/400=365.2425(日/年)としているが、それでも誤差が累積すると3,226年で1日の差が生じる。
ただし、太陽年は歳差・章動で変化する。平均太陽年を計算すると、時代を遡って約8700年前の縄文時代早期、BC6724年に太陽年は最も長く365.24254567日であった。
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岩屋岩蔭遺跡内の測定石に当たる太陽光の仰角は36度52分、
太陽高度が36度52分を通過するときに直角三角形の角度と一致する。
この形が3:4:5のピタゴラスの直角三角形であった。 |
岩屋岩蔭を構成する巨石の隙間を通り抜けた太陽光が、測定石の先端に当たる時に、
光線の角度と距離を計測をしたところ驚きの形状が隠れていた。
太陽スポット光の角度 仰角36度52分(36.87°)と距離(高さ4.20m、水平距離5.60m、斜距離7.00m)から、正確に3:4:5の直角三角形の角度に造られていることが分かったのだ。
これはピタゴラスの定理(三平方の定理)の三角形だ。
この意味は大きい。
縄文人が石組の築造のために直角三角形の寸法を使って計算して築造し、測定石を設置したものと推定できる。
既に8000年前の縄文早期に三平方の定理を理解する高度な幾何学があったということになる。
その三角形の角度の方向に太陽の高度が合う瞬間を待ち構えて、天文観測に使っていたという証拠となり、
岩屋岩蔭の太陽年観測装置を人為的に造った天文台であることが確定的になった。
縄文早期に三平方の定理が使われていたなら、他にも見つかるはずと思って探すと、
渡辺豊和著「古代日本のフリーメーソン」
(ムー・スーパーミステリー・ブックス)によると、
3:4:5の直角三角形は、ピタゴラスより前に、古代エジプトで聖三角形として知られていたとあり、
日本にも大和の三輪山と
大和三山、忌部山の地上平面に、あるいは生石神社の石宝殿にピタゴラスの三角形が隠されているという。
ネットでは「畿内の聖数比の直角三角形」のページに、伊勢内宮〜近江の多賀〜淡路島の伊弉諾神社〜伊勢の距離が3:4:5の整数比になっているとの報告がある。
他に、「宮都と方位線」で、3:4:5という整数比を持つ直角三角形の理論と、方位線を取り上げている。
だが、いずれも縄文早期より古いものとはいえない。
太陽が雲に隠れているとき、雲の切れ間から漏れた光線の柱が地上に降り注ぐ現象を「天使の梯子」という。
岩屋岩蔭の太陽光線は、縄文人が人為的に作った「天使の梯子」ではないだろうか。
「天使の梯子」を最も美しい「聖三角形」で造り上げた神の世界に届く世界最古の「聖なる階段」といえるのではないだろうか。
「聖なる階段」その目的は、天界との交流である。
これで「逆向きの北斗七星」とともに物語がつながることになる。
金山巨石群で太陽を1年間毎正時に観測したシミュレーションのアナレンマ図です。
8000年前(BC6000年)と現在の図を並べました。いずれも1時間毎アナレンマです。
二十四節気の中気の位置を橙色にしています。
アナレンマの8の字は、地球の公転軌道で近日点の近いほうが大きく描かれます。
8000年前は上(北)が大きく、現在は下(南)が大きくなります。
岩屋岩蔭の測定石に光が当たる位置は光芒で示しています。
南東の高度36度52分に太陽が来ると測定石に光が当たります。
方位と高度は8000年前でも現在でも変わりません。
岩屋岩蔭の測定石に当たる太陽光で、太陽年の観測ができていたことをこの図が示しています。
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@縄文早期8000年前のアナレンマ | A現在の太陽の軌跡アナレンマ |
![]() 岩屋岩蔭遺跡
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岩屋岩蔭遺跡では太陽の年周運動を観測したと考えられる多数の現象や北斗七星と天の北極の関係を思わせる痕跡が情況証拠となっています。
岩屋岩蔭遺跡からは01年の発掘調査で縄文早期の遺物が出土していることから、築造年代については既に確認されています。
岩屋岩蔭を構成する巨石の隙間を通り抜けた太陽スポット光が、測定石の先端に当たるという現象は、縄文時代にあっても観測可能であることをシミュレーションを確認しました。
設定角度に太陽高度が一致することで太陽年を観測することは、縄文人が人為的に造り上げた太陽年観測装置です。
したがって岩屋岩蔭遺跡は縄文時代の天文台といえます。