この場所は、恐竜が繁栄していた時代に、アジア大陸の東の端にあって、想像を絶する火山活動の舞台であった。 地下深くから噴出したマグマは、地表で巨大なカルデラを穿ち、轟音とともに火砕流となって大地を覆いつくした。 その凄まじい熱と力によって、岩石の粒は溶け合い、やがて固まり、濃飛流紋岩と呼ばれる、この地の骨格をなす巨大な岩盤となった。
それから幾千万年の時が流れ、幾度かの氷期を経験し、再び温かさを取り戻す頃、 この地を覆っていた白檜曽(シラビソ)や唐檜(トウヒ)の針葉樹林は、暖かな気候に適応したブナや水楢(ミズナラ)などの落葉広葉樹の森に移り替わってきた。
暖かくなった気候に連れて広大な森に、南からやってきた人々がいた。 清流が岩肌を磨き、その流れに沿って、天地の理を語るかのような巨大な岩塊が横たわっていた。 いずれかの力によって巨大な石が動いて収まった。 およそ八千年前、縄文の 人々は、その巨大な岩屋の陰に、ただならぬ気配を感じ取っていた。 畏怖すべき大自然の力でありながら、そこには揺るぎない天地の秩序が見出された。 この岩屋は、天上の神々と地上の人間とを結ぶ、まさに聖地であったのだろう。
幾星霜を経て、時代は移り変わる。 近世にあっては、この巨石群は妙見信仰の社として、村々の人々に篤く護られていた。 しかし、近代化という荒波が、静謐な山里を襲う。 馬瀬川を堰き止めて岩屋ダムの建設計画が持ち上がり、村は湖底に沈む運命を辿ることになる。 郷愁に満ちた故郷を後にした人々は、岩屋妙見神社を祖師野八幡宮に合祀し、巨石群の記憶もまた、水底の闇へと消え去るかのように思われた。
だが、巨石群は、静かにその時を待っていた。 歴史の冷たい手が触れぬまま、時を止めたかのように。 その沈黙を破ったのは、源義平の伝説に誘われて行われた発掘調査であり、 その前に、巨石の隙間に差し込む夏至の光に、ふと気づいた一人の男、小林由來であった。 それは単なる陽光ではなかった。 探し始めると、春分の日、秋分の日、冬至の日、あるいは暦の節目に、正確に特定の岩肌を照らす光の筋。 数千年の時を超えて、何事かを語りかけているかのような、神秘的な光景であった。
小林は、この謎の解明に、国立天文台の斎藤国治を訪ね、暦学の後藤晶男の助言を得る。 そして、写真家・徳田紫穂が加わり、彼らの地道な観測作業が始まった。 ひたすら光の軌跡を追い、その位置を記録する日々。それは科学の探究でありながら、古代人の魂との対話でもあった。 その飽くなき探求の末に、彼らは驚くべき結論にたどり着く。 春分、秋分、そして二十四節気の「雨水」と「霜降」など、その光の道は、正確な暦を示していたのだ。 さらには、うるう年までをも見事に捉えていた。 この発見は、遠くストーンヘンジのある英国にまで届けられることとなった。
その論文に興味を抱き、独逸からこの地へやってきたのが、考古学者ステファン・メーダーである。 彼は巨石の壁面に、不可解な七つの星が刻まれていることに気づく。 それは、見慣れた北斗七星の形をしていたが、空に見えるそれとは逆向きに配置されていた。 一体、縄文の人々は何のために、この奇妙な図を刻んだのか。新たな謎が、人々の前に立ちはだかった。
その答えは、後藤の友、山田卓のプラネタリウム解説の中にあった。
そして、山田を師と仰ぐ樋口元康が、逆向きの北斗七星の意味を解き明かすことになる。
古代の人々は、地上を覆う天球に無数の小穴が開いており、その向こうにある神の世界の光が、星として見えていると考えた。
ならば、神々が住まう天球の外側から見れば、星座の形は地上の人間が見る形とは逆向きになる。
岩屋の壁面に刻まれた逆向きの北斗七星は、神々をこの地に呼び寄せるための道しるべ。巨石の尖端は、まさに神の依り代であったのだ。
岩屋岩蔭は巨石で組み上げた神のお社であった。
荒ぶる神を封じるため、神饌でもてなして善神に返し自然の恵みをもたらすことを目的とした。
発掘調査で出土した石鏃、土器片は神事に使ったと考えることができる。
そのように樋口は解いた。樋口は、天文シミュレーションを用いて、七千五百年前の北斗七星の姿と、岩屋に刻まれた図形が一致することを見出した。
これは、発掘調査で判明した八千年前という年代とほぼ一致しており、縄文時代の人々の高度な天文知識を証明するものであった。
小林が発見し徳田が観測した光の道は、二十四節気の中気の日を正確に指し示す。 まことに不思議な岩屋である。 樋口は、岩屋岩蔭遺跡と周辺の金山巨石群を歩き、そう呟いた。 しかし、その思索には、一つの奇妙な点が引っかかっていた。 多くの巨石が暦の節目を指し示す中、たった一箇所、その法則から外れる石の角があった。 閏年を測る測定石である。毎年2月28日と10月14日か15日に光が当たる。その日は二十四節気とは関係が無い。
太陽の1年間の動きをダイヤグラムにしたアナレンマ図を、じっくり見て気づいた。 太陽光が測定石に当たるとき光線の角度が、3:4:5 の直角三角形を描いていることである。 なぜ、縄文人は閏年を測るために、この比率を用いたのか。 そこに込められた縄文人の知恵の深遠さに、樋口はただ驚くしかなかった。
遥か八千年もの昔、文字を持たぬ彼らが、天空を巡る太陽の運行と、地の理を巧みに組み合わせ、 この巨大な石を巧みに組み上げ、宇宙の理を刻み込んでいたのだ。これは偶然ではない。 彼らの幾何学の知識と、自然に対する畏敬の念が、この地の石に結晶していたのである。 岩屋岩蔭遺跡・金山巨石群は、単なる岩の集まりではなく、 縄文時代の人々が抱いた壮大な宇宙観を、今に伝える貴重な遺産なのである。 岩屋岩蔭遺跡、八千年前のメッセージは、その土器片と巨石に託されていた。
(生成AI&樋口元康)
外部リンク
これほど詳しく金山巨石群をとりあげた動画は希ですが、この動画には取り上げられていない多くの人が、岩屋岩蔭遺跡・金山巨石群の解明に取り組んできました。