星たび

鉄道廃線跡を行く

七尾線(穴水〜輪島)、能登線(穴水〜蛸島)

のと鉄道に移管後、2001年廃止

JTB時刻表地図1968
JTB時刻表地図2025

失われた二つの鉄路、能登へ

輪島市朝市通り

旅人は、「のと鉄道」の終着駅、かつて能登半島の鉄道交通の要衝であった穴水駅に降り立った。 目当ては、もう列車が来ることもない、二つの「失われた道」であった。

思うに、この地から分かれていた七尾線と能登線は、それぞれ能登の背骨と辺境を繋ぐ、異なる役割を担っていた。 七尾線は、金沢から能登の中核、七尾や和倉温泉を経て輪島へと至る、いわば能登の表舞台を往く道であった。 その歴史は古く、明治の末期から大正にかけて、徐々に延伸されていった。 この道の終点、輪島が持つ意味は、単なる地方都市のそれにとどまらない。 輪島塗に象徴される職人の技、日本海の荒波が育んだ漁師たちの暮らし、そして朝市に集う人々の活気。鉄道は、そうした能登の文化を、外の世界へと繋ぐ動脈であったはずだ。

それにしても、これら二つの鉄路の消滅は、日本の近代化の終焉、地方の過疎化という、大きな流れの象徴であったのかもしれない。

この「消滅」の物語に、さらに追い打ちをかけるように、未曾有の災厄がこの地を襲った。2024年の元日、能登半島を揺るがした大地震である。輪島駅の駅舎跡に佇むと、かつて賑わったであろう朝市通りの町並みは見る影もなく、火災による焼け跡と瓦礫に覆われていた。輪島港へ向かう道も、倒壊した家屋で塞がれ、活気は失われていた。

かつて鉄路の終着駅として、人々が新たな旅立ちや帰郷を祝ったこの場所も、今はただ、茫漠とした廃墟の中に横たわっている。鉄路の跡を辿る旅は、多くの場所で不可能になってしまった。かつて鉄道が通り、人が暮らしていた家々は瓦礫と化し、輪島塗の工房も、漁港の賑わいも、一瞬にして失われた。

能登線、辺境を往く

司馬遼太郎は、『街道をゆく』の「越前の諸道」の巻頭で、 「人間は、歴史というものの上に立って、はじめて現在の自分のありようを知る。」 と残している。この言葉は、歴史を学ぶことの意義を端的に表しており、過去を深く知ることが、現代に生きる自身の存在や社会のあり方を理解する上でいかに重要であるかを訴えかけている。

能登線が辿った道は、まさに日本の辺境が辿った近代の道そのものであった。穴水駅を出て内浦の穏やかな湾岸を東進するにつれて、鉄道の路盤は、ひたすら素朴な田園風景の中を縫うように続き、珠洲の蛸島へと向かう、まさに能登の辺境へと分け入る道であった。この路線沿線には、日本の原風景ともいうべき、小さな漁村や棚田が広がっていた。

文明の痕跡、縄文の息吹

間脇遺跡 竪穴式住居復元

かつて列車が走り、人々の暮らしを運んでいたその軌跡をたどると、まもなく、間脇(まわき)駅跡に着く。この無人の駅跡の北側に、突如として縄文時代の遺跡が広がっている。聞けば、ここは日本海側でも稀有な、縄文時代の集落跡だという。数千年もの昔から、人々がこの地で暮らし、営みを続けてきたのだ。

現代のわれわれが、廃線跡という近代の遺構をたどりながら、縄文の遠い昔に思いを馳せる。鉄道という文明の利器が、この鄙びた土地にどれほどの希望と活気をもたらしたか。そして、それが消え去った今、残された人々の暮らしにどのような影を落としたか。だが、その消え去った文明の跡地から、さらに遠い、縄文の昔が姿を現す。これは、ただの偶然ではあるまい。人間は、文明の盛衰を繰り返しながらも、決して途切れることのない**「生の力」**によって、この大地に根を張ってきたのだ。

崩れゆく見附島、そして人々の強靭さ

能登線鵜駅跡
見附島

能登線の終着駅、蛸島へ向かう途中、鵜飼駅跡から歩みを進める。地震でつぶれた家並みを抜け、鵜飼川に架かる橋を渡る。

海へと続く道を進むと、ついにその姿を現した。見附島。かつて、海に堂々と浮かんでいたその姿は、痛々しいほどに崩れていた。島の先端部は大きく崩落し、切り取られたかのように無残な姿を晒している。だが、それでもなお、見附島は静かに海に浮かんでいた。何万年もの間、日本海の荒波に耐え、そして今回の未曾有の地震にも耐え、その姿を保ち続けている。

この見附島の姿に、能登の人々の「生の力」が重なって見えた。家は崩れ、道は閉ざされ、長年培ってきた文化や営みは、一瞬にして失われた。それでも、人々は立ち上がり、瓦礫の中から未来を語る。それは、まるで海に浮かぶ見附島のように、幾多の困難に打ち勝ち、決して折れることのない、強靭な精神の姿であった。鉄道という文明が消え去り、震災という災厄に襲われても、この地に生きる人々の営みは、途絶えることはない。旅人は、その道の気配を感じながら、静かに能登を後にするのであった。

(生成AI&樋口元康)