星たび>認証目次

鉄道廃線跡を行く

信越本線 碓氷峠(横川〜軽井沢 )

1997年の北陸新幹線開業に伴い廃線

JTB時刻表地図1968
JTB時刻表地図2025

碓氷峠、鉄と人の闘争の果てに

碓氷第三橋梁(めがね橋)
旧丸山変電所(丸山信号場跡)

旅人は、信越本線がかつて横川から軽井沢へと駆け上がっていった峠路に立っている。 ここは、群馬と長野の県境に横たわる碓氷峠である。 古くは、江戸の昔から中山道の最大の難所として、旅人たちが汗と涙を流しながら越えた道だ。 そして、この地には、明治という時代が、新たな歴史を刻むことになった。

振り返れば、明治の日本は、西洋列強に伍するため、近代化という名の疾走を始めた。 その象徴が、鉄路である。 東京と京都を結ぶ大動脈として、当初は中山道ルートが計画された。 しかし、この碓氷峠のあまりの険しさに、東海道ルートが計画され、中山道幹線鉄道の計画は頓挫しかかった。 それでも、首都と日本海側を結ぶ交通路は、日本の近代化には不可欠であった。

この急峻な峠を越えるため、明治の技術者たちは、西洋の叡智に頼ることになる。 様々な試行錯誤の末、たどり着いたのが、ドイツで実用化されていたアプト式である。 線路の中央に歯形のラックレールを敷設し、機関車の歯車と噛み合わせることで、通常の鉄道では考えられない66.7パーミルという急勾配を克服したのだ。 わずか1年半という驚くべき速さで工事は進められたが、その陰には、およそ500人もの尊い命が失われたという、 決して忘れてはならぬ事実があった。

明治26年(1893年)、ついに横川・軽井沢間が開通する。 この区間には、26ものトンネルと18もの橋梁が架けられた。 中でも碓氷第三橋梁、通称「めがね橋」は、日本最大のレンガ造りのアーチ橋として、今なおその雄姿を誇っている。 開通当初は蒸気機関車が峠を越えたが、トンネル内に充満する煤煙に、機関士も乗客も苦しんだという。 まさに、この峠は鉄と人の壮絶な闘争の場であった。

その後、時代は進み、明治45年(1912年)には日本初の幹線電化が実現し、電気機関車が走るようになる。

横川、旅路の記憶

JR横川駅、峠の釜めし本舗おぎのや
峠の釜めし

しかし、鉄路の要衝たる横川駅に、一抹の澱みがあった。 険しい碓氷峠を前に、機関車連結のため、列車は長時間停車を余儀なくされる。 旅人はみな冷えた弁当を口にするばかりで、駅弁の売上は伸び悩んでいた。

だが、横川駅の駅弁業者「荻野屋」の4代目社長、高見澤みねじは、その中でも一際異彩を放つ人物であった。 みねじは、毎日自ら駅のホームに立ち、行き交う旅人に語りかけた。「どんなお弁当が、お好みですか」。 その問いかけは、単なる市場調査ではない。旅路の疲れを癒し、心の底から喜んでもらえるものを提供したいという、彼女の熱き思いが凝縮されていた。そして、多くの旅人が口にしたのは、「温かい、家庭の味」を求める切実な声であった。 当時の駅弁は、冷えた折り詰めが常識。だが、みねじは、その常識を打ち破るべく、温かさを保つ容器を探し求めた。

運命とは、時に思わぬ形で訪れるものである。ある日、益子焼の商人が持ってきた、 売り物にならない小さな土釜に、彼女は革命的な閃きを見た。 これこそが、旅人の心を温める器だと確信したのである。 当初、国鉄からは「重い」と難色を示されたが、みねじは決して諦めなかった。 彼女は、この土釜に秘められた無限の可能性を信じていた。

そして、昭和33年。ついに「峠の釜めし」は、横川駅で産声を上げた。 秘伝の出汁で炊き上げた温かいご飯に、鶏肉、椎茸、栗、杏子といった彩り豊かな具材を乗せたその姿は、 まさに旅の疲れを忘れさせる、小さなごちそうであった。 峠を前にした緊張、そして峠を越えた安堵の中で味わう釜めしの味は、単なる駅弁の味を超え、旅路の記憶そのものだったろう。 それは、単なる駅弁を超え、旅人の心に深く刻まれる「温かさ」という名の思い出を運ぶ、一つの文化となったのである。 今も、この駅に立つと、当時の旅人たちが列車を待つ間、この釜めしを手に旅情を噛みしめていた情景が目に浮かぶようだ。

EF63峠のプロフェッショナル

EF63形(碓氷峠鉄道文化むら)

しかし、時代は流れ、より速く、より大量に、という新しい要請がこの国を駆り立てる。 アプト式の鉄道は速度の限界と、時代の足かせとなった。
昭和38年(1963年)には、より輸送力を高めるための新線が開通する。 だが、そこにもまた、新たな難題が待ち受けていた。新線といえど、最大で66.7パーミルという、日本の鉄道史でも類を見ない急勾配は、 そのままでは容易に乗り越えられるものではなかった。 かくして、より近代的な、粘着運転による新線が敷設されることになった。

ここに、ひとつの物語が始まる。この時代の要請に応え、そして決して安全を犠牲にしないという、 鉄道員たちの使命感から生まれた機関車、それがEF62形と専用機のEF63形であった。 この機関車は、単なる動力車ではない。 下り坂では、列車を絶対に暴走させぬよう、その重い車体を文字通り「抑え込む」ための、 いわば「峠の守護神」であった。
この峠専用の強力な機関車が旅客列車を牽引し、碓氷峠を駆け上がっていく。 この機関車は、後部から列車を押し上げる「補機」として、 あるいは 下り坂では、列車を絶対に暴走させぬよう、「協調運転」によってその重い車体を文字通り「抑え込む」ために、 この難所を支え続けた。いわば「峠の守護神」であった。

この守護神を操る機関士たちは、単なる運転手ではなかった。 彼らは、自らの手で命の重さを操る、言わば「峠のプロフェッショナル」であった。 特に下り坂では、常に緊張を強いられた。 列車は自重によって加速しようとし、わずかな油断が、多くの命を乗せた列車の暴走に繋がる。 機関士は、速度計のわずかな針の動きも見逃さず、ブレーキを微妙に調整し、列車の動きを制御する。 その技術は、まるで熟練の職人が名刀を研ぎ澄ますかのごとく、 鋭敏な感覚と、積み重ねられた経験に裏打ちされたものであった。

彼らの心構えは、「絶対に、暴走させない」という、ただ一点に集約されていた。 それは、鉄道員という職務に課せられた、絶対的な倫理規範であった。 彼らは峠を越えるたびに、自らの手と、そしてこの国の鉄道技術の粋を集めたEF63形という鋼鉄の塊で、 無数の命を守り抜いていたのである。 その姿は、時代が変わりゆく中で、それでもなお変わらぬ人間の使命感と責任感を、雄弁に物語っていた。

時代の変遷と峠の終わり

しかし、歴史は常に前へと進む。 平成9年(1997年)、長野新幹線の開通により、信越本線の横川・軽井沢間は104年の歴史に静かに幕を閉じた。 アプト式が70年、粘着運転が34年。 この碓氷峠をめぐる人々の苦闘の歴史は、日本の鉄道史に深く刻まれている。 今、その廃線跡は「アプトの道」として整備され、人々はかつて鉄路だった道を歩く。

旅人は、この道を歩きながら、明治の日本人が夢見た未来と、その実現のために払われた計り知れぬ犠牲に思いを馳せる。 そして、この地に残された鉄道遺産は、単なる過去の遺物ではなく、未来へ語り継ぐべき日本の魂そのものだと、深く感じるのである。

(生成AI&樋口元康)


外部リンク