歴史を遡ること、江戸の世。 東海道は、その名の通り、日本の大動脈として、人々や物資、そして文化を運んでいた。 しかし、その長く割あい平坦な道程の中にも、時に厄介な障害が立ちはだかる。 そう、木曽川と長良川・揖斐川が合流する場所、その大河の渡河は、旅人にとって常に大きな難関であった。
東海道を行き来する人々にとって、難所中の難所が「七里の渡し」であった。 名古屋の宮宿と伊勢の桑名宿を結ぶ、およそ28キロメートルの海上路。 ひとたび海が荒れれば船は出ず、旅人は足止めを食らい、時の流れを止めてしまう。
この不便を解消すべく、名古屋の町奉行が発案し、尾張藩の力が注がれて整備されたのが、 東海道の脇往還、すなわち佐屋街道であった。
熱田の湊、宮宿から西へ、陸路をたどって佐屋宿へ至り、そこから船で木曽川を下って桑名宿に入るという、 いわば「水の難所を陸で避ける」ための道である。 この道筋は、東海道の海上路に比べて天候に左右されにくく、安定した旅を求める人々にとって、 まさに救いのような存在であった。 この街道の誕生は、ただ単に交通の便を良くしただけでなく、旅人たちの安心をもたらしたのである。
「金山」という地名の由来は、熱田神宮の鍛冶職人が集まって住み、鍛冶の神である金山彦命(かなやまひこのみこと)を祀ったのが金山神社である。
金山神社は、金山駅南口から南へ、八熊通に近い路地裏にある。ここが「金山」の原点である。
金山は、大正から戦前にかけて煙草製造工場が建つ工業地区であったが、寂れた裏口側の線路に、駅は無かった。
戦災で瓦礫となった工場を移転して、名古屋の副都心・総合駅構想が生まれた。長くの時間を経て平成元年になってやっと、
JR東海道線、中央本線、名鉄線、地下鉄が集まる金山総合駅が完成した。
駅の西に国道19号の跨線橋として金山新橋がある。その南にある新橋通との交差点が「金山新橋南」だ。
その交差点の南西側歩道に石の道標がある。
道標は、文政四年(1821)に佐屋街道の旅籠仲間が建てたもので、南面に「左 さや街道 津しま道」と刻まれている。
古く、関ヶ原の合戦の頃から、この地には津島方面へと向かう津島道があったという。
佐屋街道は、ここから西に向かう。「津島街道」ともいう。
宮宿を出立した旅人は、金山の道標を左に折れ、堀川に架かる橋を渡る。
慶長十五年、堀川が掘り開かれると、川を渡るには「渡船」が必要となったが、
寛文六年、幕府によって佐屋街道が整備されるにあたり、この堀川に新しい橋が架けられた。
この橋は、もともと「新橋」と呼ばれていたという。
その呼び名が、今もバス停「新橋通」や「金山新橋南」交差点として記憶を留めている。
現在の橋の名は、地名の尾頭村の、尾頭橋である。
尾頭橋の北方には、堀川を渡るJR東海道本線、中央本線、名鉄線の列車を眺めることができる。
江戸期、佐屋街道を往還する旅人は、その道すがら、この尾頭橋のたもとで一息つく。 やがて茶屋が建ち、酒が酌まれ、女たちが、旅の疲れを癒すようになった。 その、ごく自然な流れのなかで、いつしか「八幡園」という、なんとも風雅な名前のついた花街が、 土の匂いのする道に沿って、芽を出し、花を咲かせたのであった。 この地の道筋をいま、見つめると、格子窓のある古い木造建物が残っている。 あれは、ただの建築物の名残ではない。 それは、あの時代を生き、そして、消えていった人々の、魂のかけらのようにも思えてくる。
佐屋街道を西へ進むと新幹線をくぐる。
新幹線に並行して、手前東側に廃止されたJR貨物線の名古屋港線の橋桁である。
2024年1月25日の最終列車を最後に廃止されたのだが、
かつて多くの貨物列車が走り、名古屋を結ぶ交通の要衝あった。
港から運び出される物資を乗せた貨車が、蒸気機関車に引かれて走っていた。
線路の近くに、中日ドラゴンズが本拠地としていたナゴヤ球場(旧称:中日球場)がある。
大勢の観客が、熱狂して声を上げているときに、蒸気機関車が吐き出した煤煙が、
風に乗って球場内に流れ込むことがしばしばあった。
煙が流れ込むと、場内アナウンスが
「只今、線路を通過中の蒸気機関車の煙のため、しばらくお待ちください。」といった内容の案内が流れ
、試合が一時中断されることもあった。
昭和の時代の名古屋の風物詩であった。
この国が、戦後の廃墟から立ち上がり、未来へ向かって疾走しようとしたとき、 その先頭を走ったのは、ほかならぬ東海道新幹線であった。 それは、ただの鉄道ではなかった。 日本人の意地であり、世界へ向かって示す、文明の偉大な力そのものであった。
だが、この偉大な鉄道は、時に、その行く先で、ひっそりと暮らす人々の静謐な日常を、 まるで戦車の隊列のように踏みにじった。名古屋市熱田区や中川区の地も、例外ではなかった。
あのころ、新幹線が轟音を立てて通過する様は、見事なものであったが、 一秒ごとに、音が、空気を、そして人々の心臓を揺さぶった。 線路のそばに建つ家では、茶碗がカタカタと震え、会話が断ち切られたという。 それは、ただの騒音ではない。国家の事業が、個人の生活という、最も繊細な領域に、 物理的な暴力をふるった瞬間であった 。
新幹線という巨大な怪物は、その威容をもって、何人たりとも道を譲らぬと言わんばかりに、 音の津波を巻き起こした。国は、これこそが日本の明日であると説き、人々は、その光景に目を見張った。 だが、その明日が、いま、ここにある、 この一軒の家の、この一日の暮らしを壊すのだと、沿線に住む人々は、静かに、そして激しく訴えた。
それは、一つの奇妙な戦いであった。 科学の粋を集めた大いなる文明と、ささやかながらも自分たちの暮らしを守ろうとした市井の人々との、 避けられぬ衝突であった。彼らは、その騒音を、単なる公害と片付けず、自らの尊厳をかけて、 その巨大な鉄の塊に立ち向かった。
そしていま、新幹線の通過音は、あの頃に比べれば、ずいぶん穏やかになった。 だが、その静けさは、ただ技術が進歩しただけではない。 それは、あの時代、音と振動に苛まれながらも、声を上げ、自らの暮らしを懸命に守ろうとした人々が、勝ち取った静けさなのである。 あの時代の音の記憶は、いまもなお、この国の近代史の底に、ひっそりと響き続けている。
新幹線に近い佐屋街道の沿道に、浄土真宗の唯然寺があり、境内に一里塚がある。 地名にちなんで「五女子(ごにょうし)一里塚」とも呼ばれていた。 一里塚とは、江戸幕府が、主要な街道の整備の一環として、一里(約4km)ごとに築いた土盛りの塚のことである。 通常は街道の両側に一対で設けられ、上にエノキやマツなどの木が植えられ、 旅人にとっての道標や休憩場所の役割を果たした。 石碑には「津島街道」と刻されている。津島街道は、佐屋街道の一部である。 この一里塚は、宮宿から数えて最初の「一里塚」にあたる。
この道には、もう一つ、別の時代の「道しるべ」が潜んでいる。
街道の傍ら、長良橋の手前に佇む石碑である。
石碑には「明治天皇御駐驛之所」と刻されている。
この碑文に刻まれた文字は、われわれをまことに奇妙な物語へと誘う。
明治元年十二月十八日。それは、江戸から東京へと名を改められたばかりの地から、 旧都である京都へ天皇が戻られる道中での、ほんの一時の休息を記している。 明治元年十二月十八日。それは、まだ江戸から名を改められたばかりの東京から、 旧都である京都(西京)へ天皇が戻られる途中のことだった。
新しい時代を築くため、天皇は旧体制の本拠地を離れ、新しい都へと向かわねばならなかった。 しかし、千年の都・京都には、公家や市民の深い情愛と、古い歴史の重みが、岩のように横たわっていた。 政府は、いかにしてその岩を動かすか。直接的に「京都は首都ではない。 東京へ移る」とは、口が裂けても言えなかったのである。
そこで、彼らはまことに巧妙な手を打った。
それは「行幸」という言葉である。天皇が旅に出る、という意味だ。
明治元年、天皇は江戸城に入られ、これを東京城と定めた。
しかし、それはあくまで「行幸」であった。京都へ戻っては、また東京へ向かう。
この往復を繰り返すうちに、政府機関も、そして天皇も、次第に東京に腰を落ち着けていった。
そして、明治二年三月、天皇は再び東京へ向かわれた。
今度こそ、京都へは戻られなかった。
この日をもって、天皇の「行幸」は「定住」へと静かに、しかし決定的に転化した。
日本の首都は、法律によって「東京」と定められたのではない。
天皇という「点」が、ただひたすらに、動かなくなったその場所に、自然発生的に出来上がってしまったのだ。
その後「東京城」は「皇城」を経て、昭和23年から「皇居」に定まった。
この国の首都とは、まこと不思議な、しかし現実的な、 水が低い方へ流れるがごとき静かなる力の集積によって形づくられてゆくものだった。 そして、名古屋の片隅にあるあの石碑は、その歴史の転換点において、 天皇が、ほんの束の間、腰を下ろした場所を、静かに語り続けているのである。
この国の歴史は、幾筋もの川の流れのように、ときに静かに、ときに荒々しく、その姿を変えていく。 そして、その流れが交錯する地点には、必ず、その時代の営為が凝縮された物語が生まれる。 佐屋街道は、ただの土の道ではない。 それは、旅の男たちや、行商人たちの足跡が幾重にも重なって、この国の動脈となったものであった。
その街道に、時代の新しい息吹が吹き込まれた。
それは、まことに壮大な文明の力を見せつけたのが、中川運河である。
大正から昭和の初めにかけて、人の手によって、この地を貫くように掘り抜かれたこの運河は、
さながら「東洋一の大運河」と謳われ、名古屋港と市中を結ぶ大動脈となった。
その沿岸に工場が建ち並び、物資を積んだ船がひしめき合った様は、この国が力強く未来へと向かう、
まばゆいばかりの光景であった。
運河開削以前、この地の自然の川である笈瀬川にかかる長良橋は、一本の小さな木の橋にすぎなかった。 しかし、中川運河が掘られると、その橋は姿を変え、巨大な鉄の橋として、新旧の二つの時代を結ぶ役割を担うことになった。
あと1つは、下之一色線と名付けられた、一本の小さな路面電車である。 この佐屋街道を使っての尾頭橋から長良本町へ、そこから田んぼの中や民家の軒先を通って下之一色まで専用軌道で電車道が敷設された。
それは、遠く離れた漁村で獲れた魚を、市中へ運ぶという、まことに現実的な目的で敷かれた、ささやかな鉄道であった。
大正2年(1913年)のことである。
それは、庄内川の河口に開けた漁村、豊かな川と海に恵まれ、人々はそこで魚を獲り、生計を立てていた。
しかし、せっかく獲れた海の幸も、遠く離れた名古屋の市中へ運ぶには、いかにも不便であった。
この地の漁師たちが、自らの手で、下之一色電車軌道を設立し。鉄道を敷くという、まことに壮大な事業に乗り出した。
下之一色という郷から、名古屋の繁華街、尾頭橋を結び、鮮度が落ちぬうちに、都会の食卓へ届ける一本の生命線であったのだ。
もちろん、魚の輸送だけでなく、下之一色地区の住民が名古屋市街地へ通勤・通学・買い物をするための旅客輸送も重要な役割であった。
佐屋街道、市電下之一色線。そして中川運河。 これらの歴史の層が、一つの地点で交わる。それが長良橋である。
古き街道の上を、小さな電車が走り、その道を横切るように、巨大な船が航行する。 その光景を、橋の上から眺めた旅人がいたならば、彼はきっと、この国の持つ、 奇妙で、しかし力強い歴史の層を、まざまざと感じ取ったであろう。 それは、古いものと新しいものが、決して一方を駆逐することなく、 かさなり合って、共存していく、この国ならではの風土を象徴する、まことに興味深い光景であったのだ。
<だが、この小さな電車は、日本で初めての「ワンマン運転」という、近代化の試みを率先して行い、 やがてその波を全国に広げていくことになる。
昭和12年(1937)、下之一色電車軌道は名古屋市に買収されて、 名古屋市電下之一色線となり、昭和44年(1969)まで走り続けた。 こののどかな道筋に、一つの近代的な実験が持ち込まれたのは、まことに興味深い。 人件費の削減という、いかにも時代の趨勢に沿った理屈で、 この下之一色線は、日本で初めて「ワンマン運転」を始めた。
車掌という、旅人の世話役が消え、運転手が一人で、切符の販売から運転までをこなす。 それは、人と人との触れ合いを重んじる旧来の日本の社会から、効率を第一とする新しい時代へと、 この国が向かっていることを示す、小さな、しかし確かな一歩であった。その実験が成功したという知らせは、 まるで小さな波紋のように全国に広がり、やがて、日本の路面電車から、車掌の姿を消す大きな波となった。
やがて、この下之一色線も、自らの役目を終え、昭和44年(1966年)ひっそりと姿を消した。 しかし、その跡には、かつて日本の路面電車が、いかにして新しい時代へと舵を切ったかという、 ささやかながらも重要な歴史の軌跡が、いまでも、地の底に眠っているのである。
この国の歴史は、幾筋もの鉄の道が、この大地のあちこちに敷設されてきた物語でもある。 だが、その鉄の道が、古くからの人間の営みをどう踏みにじり、あるいはどう変えていったか。 その象徴のような光景が、かつてこの地に存在した。
それは、古くから人々が歩いた道であり、旅の男たちが汗を流し、物資が行き交った、この国の動脈であった。 その街道に、突如として、幾本もの鉄の道が、まるで大蛇のように絡みつき、地面を這い始めた。
国鉄の関西本線、近鉄の名古屋線、そして貨物専用の西名古屋港線。
これら、異なる目的を持った鉄路が、一つの地点で、佐屋街道と交わっていた。
そこには、「笹島踏切」通称、「烏森踏切」という、まことに奇妙な場所があった。
それは、単なる踏切ではなかった。 汽車が、電車が、貨物を満載した貨物列車が、ひっきりなしに行き交う。そのたびに、 踏切の遮断機は、まるで世界の終わりを告げるかのように、けたたましい音を立てて閉ざされた。 街道を行く人々は、車を運転する者も、歩く者も、ただただ、その鉄の列が通り過ぎるのを待つしかなかった。
何十年もの歳月が流れ、人々は、この不条理を宿命として受け入れていたのかもしれぬ。 だが、時代は変わる。この国は、ただ力任せに前進するのではなく、過去の遺産と向き合い、その傷を癒すことを学んだ。 平成の世に入り、この地の鉄道を宙に浮かせ、踏切という呪縛から人々を解放する、巨大な事業が始まった。
それは、いかにも日本の近代化らしい、壮大な工事であった。 地べたを這い、人々の暮らしを分断していた鉄路が、何年もの歳月をかけて、空高く舞い上がっていく。その工事は、 さながら、大地に刻まれた痛ましい傷跡を、新しい時代の土木技術という力で、ゆっくりと、 しかし着実に修復していくかのようであった。
そして、平成18年のこと。 かつて人々が立ち尽くした場所に、もはや遮断機は存在しなかった。 代わりに、鉄道は高架を滑るように走り、その下を、車も人も、もはや立ち止まることなく行き交うようになった。
この国の近代化の歩みの中で、人々が、あの踏切の前で、ただじっと待ち続けた光景は、歴史の記憶の底に、深く刻まれている。 それは、科学の進歩と、人間の生活との間にあった、痛ましいまでの乖離を象徴する、一つの忘れられない光景であった。
旅路をさらに進めると、最初の宿場、岩塚宿が現れる。長旅を始める旅人にとって、ここはまさに「オアシス」のような場所だったに違いない。 街道沿いには旅籠や茶屋が軒を連ね、人々はここで旅の疲れを癒やし、英気を養った。
道中、旅人たちの安全を願って祀られたであろう地蔵や祠が点在する。 岩塚の鎮守である七所社に手を合わせ、旅の無事を祈った者も多かったことだろう。
佐屋街道は、岩塚宿のあと、万場、神守の宿場を通り、終着点である佐屋宿に至る。 そして、三里の渡しで木曽、長良、揖斐の三つの大河を越え、桑名宿で東海道へと合流する。
佐屋街道は、単なる陸路ではない。それは、古の旅人たちの足跡であり、人々の祈りであり、 そして、この国の都が定まるまでの、歴史の奇妙な物語を静かに語り継ぐ道なのである。
(生成AI&樋口元康)