星たび星たび研究室

鉄道をゆく

あおなみ線(西名古屋港線) (名古屋〜金城ふ頭)

名古屋の地に、新しき時代への胎動を告げた「あおなみ線」の物語、 その根源をたどれば、戦後の復興を支えた国鉄の貨物線、「西名古屋港線」に行き当たります。

(通称:西臨港線)西名古屋港線 (旧・笹島駅〜西名古屋港駅)

西臨港線のD51貨物列車(生成AI)
市電下之一色線とダイヤモンドクロッシング(生成AI)

名古屋港線という「物の道の歴史」

かの線路が生まれるにあたっては、まず戦後の日本が背負った、「物」への飢餓と復興への熱意という、 二つの大きな感情を見据える必要がありましょう。

西名古屋港線は、昭和25年(1950年)に、東海道本線の貨物支線として、 旧笹島駅(現在の名古屋駅南側)から西名古屋港駅までのわずかばかりの距離を開業いたしました。 この「西臨港線」とも呼ばれた鉄路は、明治以来、名古屋港の東側を走っていた「臨港線」(後の名古屋港線)に対し、 発展著しい西側の稲永埠頭や潮凪埠頭、そしてその周辺に立ち並ぶ工場群へと、国土復興に必要な石炭、鉄、木材、 そして化学薬品といった「物」を運び入れるための、動脈そのものでありました。

鉄路が敷かれたのは、戦後の瓦礫の中から立ち上がろうとする熱気が、この国全体を覆っていた時代。 その道のりは、ただ平坦なものではなく、名古屋市電の下之一色線や築地線といった、 先に栄えた「人々の足」と平面で交差する、いかにも性急で、泥臭い工夫に満ちておりました。 そこを、D51やDD51といった鉄塊が、黒い煙と唸りを上げて、日本の再起を懸けた産業の息吹を運んでいたのであります。 まさしく、国家の意志が具現化された「物の道」であり、その役割は、長く、地味ながらも、極めて重要でありました。

西名古屋港駅(生成AI)

西名古屋港駅の廃止

時代の変遷と「物の道の衰微」

しかしながら、歴史とは常に移ろうもの。昭和40年代以降、日本の産業構造は変化を遂げ、また貨物輸送の主役は、 トラックやコンテナ船へと徐々に移り変わっていきます。 西名古屋港線も、他の臨港線と同様、かつての活気を失い、蒸気機関車がその姿を消した昭和46年(1971年)頃からは、 どこか寂寥とした雰囲気に包まれていくのであります。

名古屋貨物ターミナル駅が昭和55年(1980年)に開業した際も、この貨物線自体は存続したものの、その役割は縮小の一途。 やがて、西名古屋港駅は平成13年(2001年)をもって廃止。かつて「物」を運んだ鉄路は、時代の役目を終えたかのように見えました。 この時期の西名古屋港線は、人々の意識から遠ざかり、まるで古の武具のように、静かに眠りについていたのであります。

名古屋臨海高速鉄道 (あおなみ線:名古屋〜金城ふ頭)

「あおなみ線」という「人の道の誕生」

ところが、この眠っていた鉄路に、再び生命の息吹が吹き込まれるのであります。

平成に入り、名古屋の都心、そして臨海部の発展は、新たな局面を迎えていました。 名古屋駅周辺は、大いなる再開発の波に乗り、一方、金城ふ頭には国際展示場やレジャー施設が集積し、 「物」から「人」への交流拠点へと変貌を遂げようとしていたのであります。

ここに、旧西名古屋港線を「旅客線」として蘇らせるという、壮大な構想が立ち上がります。 それは、単に貨物線を転用するというだけではない、名古屋西南部地域の交通の便を飛躍的に向上させ、 沿線の新たな街づくりを促すという、現代日本の新しい「意志」の顕れでありました。

平成16年(2004年)、第三セクターである名古屋臨海高速鉄道の手により、線路は高架化され、電化され、 近代的な「あおなみ線」として生まれ変わります。かつて貨物を載せていた線路は、一転して「人」を運び、 都市と港を直結する大動脈となったのであります。

この変貌は、まさに劇的でありましょう。国鉄時代の地を這うような貨物線が、 現代の空を駆ける高架の旅客線へと姿を変えたのは、日本という国が「生産と物流」の時代から、 「交流と文化」の時代へと転じた象徴的な出来事と言えましょう。

あおなみ線は、古い「物の道」の遺産を引き継ぎながら、その上に新しい「人の道」を築き上げた、 歴史の継続と断絶を見事に体現している路線なのであります。その軌道には、戦後復興に懸命だった先人たちの汗と、 現代を生きる人々の未来への希望とが、二重写しになって刻み込まれていると言えるでしょう。

「人の道」に生まれ変わった駅々

さて、この鉄の舟が停まる駅々を辿れば、それはまさに名古屋の近代史をたどる旅路となる。

都心の胎動「名古屋」と「ささしまライブ」

駅・時刻表・ 路線図マップ - あおなみ線

路線の起点、名古屋駅は、古来より東海道の結節点であり、今や大名古屋圏の心臓であります。 この喧騒たる大ターミナルに、かつての貨物線の起点が接続されていること自体が、歴史の劇的な転換を物語っています。

そして、隣接するささしまライブ駅。この地は、かつての笹島貨物駅(旧西名古屋港線起点)周辺が、大々的な再開発を経て、 突如として現代都市の様相を呈した「新しい街の胎動の場」であります。 近代的なビルが立ち並び、まさに未来の名古屋を予見させる場所で、都市の拡張への意欲が感じられます。

旧き土地の再編「小本」から「港北」まで

路線が中川区から港区へと進むにつれ、かつての貨物線時代の名残が、生活の息吹へと上書きされてゆく様が見て取れます。

小本、荒子、南荒子、中島、港北。これらの駅は、かつて貨物線がただ黙々と、 生活空間と産業空間の境界線を突っ走っていた場所に、改めて「人々の暮らし」のための門戸を開いたのであります。 特に荒子周辺は、戦国武将前田利家の生誕地としても知られ、古来からの郷土の歴史を背負いながら、鉄路によって都心と結ばれ、 新たな発展を期しているのであります。

これらの駅舎は、すべて高架の上に建設され、その足元では、人々の営みが続いている。 これは、過去の貨物線がもたらした土地の分断を、現代の都市交通が再び統合するという、現代日本の合理精神の発露と言えましょう。

港への結実「港北」から「金城ふ頭」

いよいよ鉄路が海へと近づくにつれ、駅名には「水」と「港」の気配が濃くなります。

「港北」駅は、「名古屋競馬場前」駅から、競馬場の移転・再開発で駅名が変更されております。
荒子川公園駅は、広大な緑地を抱え、レジャーと憩いの空間への玄関口。稲永、野跡と続く駅は、 かつて潮風と油の匂いが混じり合った臨港地帯が、今は公園や住宅、そして新しい産業を受け入れる場へと変貌を遂げたことを示します。

そして終着、金城ふ頭駅。 この駅は、この路線の最終目的地であり、かつての西名古屋港駅が担った産業の玄関口という役割を、 「文化」と「交流」の玄関口へと転換させた、象徴的な場所であります。

巨大な展示場(ポートメッセなごや)、子供たちの夢を育むレゴランド・ジャパン、 そしてリニア・鉄道館。鉄道の歴史、特に日本の誇るべき技術の粋を展示する「リニア・鉄道館」が、皮肉にも、 かつての貨物線の終着点に立つというのは、まことに感慨深き歴史の巡り合わせではありませんか。

名古屋臨海高速鉄道1000形電車

名古屋臨海高速鉄道1000形電車(LEGOランドラッピング)

時代の寵児、「1000形」という鉄の舟

旧き貨物線であった西名古屋港線の、その枕木が新しき「人の道」として生まれ変わった時、 そこには、まさに現代の意志を体現する、 一隻の鉄の舟が配されました。それが、この名古屋臨海高速鉄道1000形電車であります。

その外観を見れば、まず眼を奪われるのは、バイオレットブルーと水色の帯を纏ったステンレスの車体でありましょう。 これは、先の時代を駆け抜けたD51のような黒鉄の重厚さとは対極に位置する、軽快にして爽涼な色彩であります。 愛称が示すが如く、「青い海と波打ち際の煌めき」を写し取ったこの電車こそ、港と都心を結ぶ新時代の動脈に相応しい。

特筆すべきは、この車両の生い立ちであります。その主電動機や台車といった走行装置は、東海道を駆けるJR東海313系と、 深く血を分かち合っております。 これは、単なる技術提携に留まらず、この地域が持つ鉄道技術の底力と、新しき路線を支えんとする地域全体の合意が形となったものと言えましょう。 この1000形は、一地方の三セク鉄道の車両でありながら、東海の鉄道技術の粋を継承した、時代の結晶なのであります。

車内は、青色のロングシートが並び、窓からは熱線吸収ガラスを通して、光が優しく降り注ぐ。 かつての貨物列車が吐き出した石炭の煙は、遠い記憶の彼方に消え、ここに座る人々は、清潔で快適な速度をもって、都心と港を往来する。 この電車は、戦後の「物」の流れを、現代の「人」の交流へと見事に昇華させた、生きた証であります。

あおなみ線と1000形電車は、過去の重き使命を軽やかに乗り越え、名古屋の未来、そして海への開放性を運ぶ、青い希望の鉄路なのであります。

浪漫の籠もった郷愁の走行

時は平成25年(2013年)の2月。舞台は名古屋の臨海部を走路線「あおなみ線」であった。 名古屋駅から名古屋貨物ターミナル駅まで、わずか十数キロの区間。

蒸気機関車C56 160が牽引する12系客車「SLあおなみ号」

考えてみれば、このあおなみ線という路線は、元を辿れば港湾と貨物を結ぶための、まことに実務的で地味な鉄道であった。 しかし、そこに突如として「SL」が持ち込まれた。 それも、山深いローカル線を思わせるような小型の蒸気機関車、C56形。愛称は「SLあおなみ号」という。

なぜ、いま、名古屋の都心に近い場所で蒸気機関車なのか。という声があった。

その発端を探ると、やはり、当時の名古屋市長の、いささかロマンチストな「思い」があったという。 市民の足を担う近代的な鉄道に、あえて時代を遡るような蒸気機関車を走らせたい。 これは、単に郷愁に浸るということではない。彼は、このSLの運行によって、この街に一種の「華やかさ」と「話題」をもたらし、 あおなみ線という、やや影の薄い存在に、新しい光を当てようとしたのであろう。

つまり、これは観光や集客という、まことに現代的な目的のために、過ぎ去った時代の遺物――あの黒い鉄の塊に、 もう一度、火を入れ、息吹を与えた出来事であった。

あの二日間、SLは走った。沿道には、黒い煙と汽笛に惹きつけられた群衆が集まり、さながら時代が巻き戻ったかのような熱狂があった。 だが、熱狂の裏で、関係者たちは、この壮大なイベントが果たして採算がとれるのか、技術的な課題はないか、という厳しい現実を計算していたに違いない。

過ぎ去った歴史の「浪漫」を、現代の「経済」という土俵に無理やり引っ張り出す。 そして、その試みが、結局は「実験」という名の検証で終わってしまう。 あの時のSLの煙は、単なる石炭の燃えかすではなく、過去への憧憬と、現代の合理性の間で揺れ動く、 いかにも日本的な心象風景を映し出す、一縷の蜃気楼のようなものであったと言えるのではないでしょうか。

結局、その後の定期運行の話は、具体的な進展を見なかった。 SLあおなみ号は、時代の「気まぐれ」と「郷愁」が、一瞬だけ都市の片隅で結実した、まことに短くも印象的な事件であったと、私は回想するのです。