この名古屋市電の花電車というもの、それは単なる電車ではない。 ある時代の、ある都市が持っていた熱情が、絢爛たる光となって軌道上を走った、 まことに象徴的な存在であったと言えるだろう。
その起源は、市電がまだ私設の鉄道であった明治の世にまで遡るのである。 日露戦争の戦勝祝賀といった国家的な慶事の折に、人々は電飾や造花で電車を飾り立て、都市の熱狂を目に見える形にした。 これは、いかにも日本人の持つ祝祭の精神が、新しい文明の利器たる電車に結びついた、時代の胎動なのである。
そして、この花電車のロマンが最も華麗に咲き誇ったのは、戦後のことであった。 昭和30年(1955年)に始まった「名古屋まつり」は、戦災からの復興を経て、全市民の活力を結集せんとする都市の気概が創り出した祝祭であった。 古来の東照宮祭の伝統を引き継ぎながらも、織田・豊臣・徳川の三英傑が主役として掲げられたこの祭りは、 まさに郷土の誇りを現代に呼び覚ます力強い企てであったと言うべきであろう。 花電車は、その祭りの主役の一角に、近代のロマンを背負って躍り出たのである。
実際の電車車両に、生花や造花、そして膨大な数の電飾が施される。 夜の街路を、巨大なテーマ装飾を戴いたその電車が、ゆっくりと進む光景は、まさに動く光の宮殿であった。 市民はそれを仰ぎ見て、自分たちの暮らす街の賑わいと、未来への希望を感じたのである。
花電車は、三英傑の行列が過去のロマンを再現する横で、近代の技術と復興した都市の活力を象徴する存在となった。 その絢爛たる輝きは、祭りの祝祭ムードを最高潮にまで高め、市内を巡回することで「動く広告塔」として賑わいを都市全体にもたらした。 それは単に美しいだけでなく、都市の経済力と文化的な豊かさを誇示する、市民の誇りの光であったのである。
しかし、時代の潮流は容赦ない。都市の拡大に伴い、市電はその使命を終えることになる。 昭和48年(1973年)、名古屋市電は全廃され、花電車もまた、一つの歴史に幕を下ろしたのであった。
花電車の華やかさは、その後、より自由な機動性を持つ「花バス」に受け継がれた。 ロマンの形は変われど、祭りの賑わいを求める人々の心は変わらなかった。 そして今、祭りのパレードは「フラワーカー」に託されている。
花電車が夜の闇を裂いて走ったその軌跡は、名古屋という都市が、自らの熱情を、最も華やかな形で表現しようとした証であった。 その残像は、今も市民の心の中で、鮮やかに輝き続けているのである。
かつて、名古屋の夜の街を照らした花電車の光芒を現代に呼び戻そうと、一枚の古い写真を追った。 探せども、花電車の華やかさをそのまま伝えるカラーの記録は、手許やネットの資料からは得られなかったのである。
わずかに残されていたのは、名古屋市市電を保存するレトロでんしゃ館 に掲示されている、おもに白黒写真であった。 まことに嘆息すべきことではあるが、当時の技術、あるいは人々の眼には、この花電車の「光と色彩の熱狂」を、 そのまま封じ込めることは叶わなかったのであろう。
そこで、現代の新しい文明の利器たるAIを用いて、この白黒の電車に、在りし日の「色」を吹き込むという作業を試みた。 しかし、AIが自動で着色したその姿は、かつて市民が熱狂した夜の花電車の印象には、いまだ遠く及ばないものであった。 ゆえに、その「熱狂」を掴み取るため、さらに手を加えることを決意した。
絵画に印象派という一派があるように、写真にもまた、「印象写真」があって良い。 それは、事実の正確な記録を越え、そのロマンと精神を、光と色彩の力強い表現によって伝える試みなのである。
この試みは、かつて花電車を走らせた人々の「誇り」と、それを見つめた市民の「熱情」を、時を超えて再現せんとする、現代のロマンである。 そして、この作業がAIという新しい技術によって初めて実現できたという事実は、時代というものは常に進む、という歴史の厳粛な理を、 我々に改めて知らしめているのである。
(生成AI&樋口元康)