明治の御世、東京の郊外にまだ武蔵野の面影が色濃く残る頃、人々の暮らしを根底から変える、ひとつの小さな試みが始まった。 それが、玉川電気鉄道、通称「玉電」である。
当初、この鉄道は、多摩川の川床から産出される砂利を、急成長する帝都へと運ぶための、いわば土木事業の付属物として計画された。 故に、人々は親しみを込めて、あるいはどこか揶揄するように、この路面電車を「じゃり電」と呼んだ。 しかし、この「じゃり電」には、単なる砂利運びの域を超えた、壮大な夢が託されていたのである。
明治40年(1907年)、幾多の難関を乗り越え、渋谷と玉川を結ぶ軌道が敷かれた。当時の運賃は、そば一杯に等しい三銭。 これは決して安価なものではなかったが、玉電は単なる移動手段に留まらなかった。 多摩川の清流を望む地に遊園地やプールを開設し、沿線一帯を行楽地として開発したのである。 さらに、電力供給や住宅地の分譲にも乗り出し、この鉄道は、世田谷・玉川の荒野を、新たな人々の営みの場へと変えていった。
しかし、時代は容赦なく移り変わる。
昭和三十年代後半、戦後の復興を終えた日本に、モータリゼーションの荒波が押し寄せた。 国道246号(玉川通り)は、首都と郊外を結ぶ大動脈として、瞬く間に自家用車の群れで埋め尽くされ、慢性的な大渋滞に陥る。
路面の真ん中を走る玉電は、この車の洪水の中で、もはやその身動きを封じられてしまう。 かつて「じゃり電」と呼ばれた電車は、車の流れを阻害する厄介者として、いつしか「じゃま電」と、皮肉を込めて呼ばれるようになった。
この深刻な交通麻痺を前に、もはや玉電の廃止は避けられぬ運命となった。
昭和44年(1969年)、首都高速道路の建設という時代の要請も相まって、玉川線と砧線は、六十三年にわたる歴史にひっそりと幕を閉じる。 路面電車としての玉電は、時代の波に呑まれた、いわば「生贄」のような側面を持っていたと言えよう。
しかし、玉電の物語はここで終わらない。 その地上の軌道は消え去ったが、人々の移動を担うという「夢」は、地下に託されたのである。 後に新玉川線として開業した新たな鉄路は、地上の渋滞をものともせず、人々の新たな日常を運び始めた。
玉電の物語は、砂利を運んだ一台の路面電車が、時代の盛衰を見届け、そして形を変えながら、 今なお東京西郊の生命線として生き続ける、ささやかながらも壮大な歴史絵巻なのである。
(生成AI&樋口元康)